はじめに…
当社は、1999年10月、創立30年を迎え、これまで多くの作家の先生方に素晴らしい作品を書いて頂きました。ぜひ先生方の生の声を皆様にご紹介したいということで、この“作家の横顔”を企画いたしました。
シリーズ第10回は、現役のべーシスト兼、作・編曲家、音楽プロデューサーとしてもご活躍の後藤次利さんです

第10回 後藤次利さん プロフィール 後藤次利
1952年東京生まれ。青山学院大学卒業。中学時代からギターを弾き始め、大学2年の時、ベース奏者としてブレッド&バターのバックバンドに参加。‘76年、高中正義氏、高橋幸宏氏と“サディスティックス”を結成。’79年、沢田研二「TOKIO」で日本レコード大賞編曲賞を受賞以降、’80年代はシブがき隊、一世風靡セピアなどの作曲活動も本格化。’86年からは“おニャン子クラブ”及び関連のアーティストを手掛け、’87年の工藤静香デビューシングル「禁断のテレパシー」から、’93年までの全シングル、アルバムの作・編曲を手掛ける。’91年から、とんねるず、吉川晃司、大友康平などの作・編曲の他、日本テレビ系「NNNきょうの出来事」のテーマ、BGMをプロデュースするなど、現役のベースプレイヤーであると同時に、作・編曲家、音楽プロデューサーとしても幅広い分野で活躍。



[ INDEX ]
●18年ぶりに出したニューアルバム!!
●『テレビっ子』で育った少年時代―――
●高校では軽音楽部に――そこでプレイヤーとしての才能も磨かれる。
●19歳で、早くもベースプレイヤーとしてプロデビュー!!
●華やかなべーシストとスタジオミュージシャン――そんな音楽活動の『光と影』
●作・編曲、プロデュースの世界にも進出!!
●ミュージシャン生活30年を振り返って――
●今後の抱負、そして夢―――



●18年ぶりに出したニューアルバム!!
かつてはサディスティックス(’76年)という伝説のバンドに参加したり、沢田研二さんの「TOKIO」(’79年)でのレコード大賞編曲賞をはじめ、シブがき隊、一世風靡セピア、おニャン子クラブ、工藤静香、とんねるず、吉川晃司など、80年代から現在に至るまで、多くのアーティストの作・編曲・プロデュースを手掛けていらっしゃる後藤次利さん。そんな後藤さんがみずからのベースプレイにより、先頃、18年ぶりのソロ・アルバム「do not disturb」をリリースされました。
まずは、その18年ぶりにニューアルバムを出されたきっかけからお伺いしました。
「今まで自分の一番の“武器”になっているベースプレーヤーというものを、もう一回やりたいなぁというのがホンネですね。幸いにもここ何年か、(自分を)ベースプレイヤーとして呼んでくれる昔の仲間が多くて、楽しかったんですよね。高中(正義)さんとか斎藤ノブさんもそうだったし…。今回のアルバムでは、8割がたベースを自分で弾いて、あとの2割はシンセベースを使いましたが、唄ものでなく、インストゥルメンタルをベースで弾ける“我侭さ”がいいなぁーって。(笑)プレイヤーとしてのこだわりみたいなものですかね。それにもうひとつ、こんなに長く音楽業界の片隅でやって来て、自分に代表作と言えるものがあるのかなぁと思った。決して代表作を作る為にやったのでもないんですが…代表作探しにいこうかなぁ、くらいの気分ですかね。だから(タイトルの)「do not disturb(日本語訳=ジャマしないで!)」も、勝手に好きな事やるからほっといてね――程度のニュアンスですかね。」
では、それほど長いお付き合いをされてこられたベースの魅力というのは?
「楽器的に言えば、メロディもリズムもあるので、ドラム側にもつけるし、ギターにもつけるという――そのスタンスの面白さですかね。それに単純に(僕自身が)“低い音”が好きなのかもしれませんね。(笑)だから今も4弦のベースしか持ってないんです。高い音の出る5弦(のベース)などは、ちょっと生理的に合わない、気持ち悪いというか(笑)…それにベースを持つと、何故か強気になれるんです。『さぁ、やるぞっ!』と言った感じで。車のレースに例えれば、ヘルメットを被った瞬間みたいに…。」
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●『テレビっ子』で育った少年時代―――
五反田(東京都品川区)で生まれ育ったという後藤さんの少年時代は、ちょうどテレビ草創期とも重なり“巨人・大鵬・玉子焼”の流行語まで生まれたほど、子供達の人気の的はテレビと相撲、プロ野球に集中していました。
そして、当時の後藤少年にとっても、初めて音楽の世界に憧れたのは、その頃のテレビ番組を観て、『カッコイイ!!』と思ったのがきっかけだそうです。
「“アマチュア勝抜きエレキ合戦”なんていう番組を観たりして、『カッコイイなぁ』と思えて、その憧れから、自分も楽器をやってみたいと素朴に思いましてね。当時(小学校の)音楽の授業としては、楽器は教室に一台足踏みオルガンがあったくらいで、歌のテストや、バッハとかヘンデルが何年に何という曲を作ったとかの歴史などで、全く興味もなかったし、憶える気もなかったですね。(笑)成績も余り良くなかったし…。その他では、空地で草野球に夢中になったり、中学1年の時は、東京オリンピックで、原宿駅へ外国人を見に行ってまた、『カッコイイ!!』と思ったりして(笑)…当時は外国人を生で見るだけで、カッコイイと感激したりしてましたね。」
それまでは、楽器はおろか、音楽の世界にもあまり縁のなかった後藤さんが、初めてギターと出会われたのは?
「中学2年の時です。何人かいる姉の一人が、ビートルズとかのレコードを買って来ては、(僕も)一緒に聴いてはいたんですが…。その姉に、“アストロノーツ”が来日した時、初めてコンサートに連れて行かれたんです。たしか(会場は)渋谷公会堂で、サポートバンドが寺内タケシとブルージーンズ。当時、自分の耳にはもの凄く大きい音に聴こえた…音量とかで凄いなぁ!と。それで急に楽器を始めたくなったんです。親にねだって、武蔵小山(商店街)の楽器屋さんでエレキギターを買ってもらいました。それから同じ商店街の楽器教室に通い始めたんです。ベンチャーズの曲とかを、手とり足とりマンツーマンで習ったりして…とにかく大変なギターブームでしたから(友人達も)皆んなギターばっかりで。かと言ってバンドを組むほどは、上手くなかった。当時は、専門的な音楽教育などは全く知らなかった。そんな少年達がテレビの影響でエレキをやり出したという時代でしたね。」
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●高校では軽音楽部に――そこでプレイヤーとしての才能も磨かれる。
高校は私立の名門、青山学院大学の附属高校へ進み、軽音楽部に入る。そして、このクラブ活動を通じて学んだことや、その時の交友関係が、後にミュージシャンの道を歩む大きなステップとなったそうです。
「当時、(クラブは)音楽の先生が指導していたんですが、この方が粋な先生でね…いつもJAZZみたいなものを主体に練習していたんです。そこに入って、初めてJAZZの音楽理論を知りましたし、コードの積み重ねなども知識として認識しましたね。またその頃、別のギタースクールへも通って理論を習ったりと…少し頭を使う音楽の方向へ進んだ。例えば、中学時代は経験してなかった、ピアノとのセッションなんかもありました。音楽だけを専門に小さい時からやってきたピアノの人達とか、全く経歴の違った音楽を志している人達と出会ったことは、とても有意義でしたね。」
後の“ティン・パン・アレイ”のドラム担当だった林立夫さんとも、その頃のクラブ仲間だったそうですが?
「彼(林立夫氏)とは同級生だったし、クラブ以外にも演奏してました。彼の影響は、何かと大きい…今振り返ると、仲間には恵まれましたね。(笑)プロへのきっかけを与えてくれたのも彼ですし、彼は特に交友範囲が広くて、“ブレッド&バター”との人脈も、彼からの紹介だったんです。」
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● 19歳で、早くもベースプレイヤーとしてプロデビュー!!
高校の同級生だった林立夫氏との縁もあり、’71年、“ブレッド&バター”のバックバンドに参加。当時、まだ19歳にしてベースプレイヤーのプロデビューを飾る…。
ところで、このバンドがベースを始められたきっかけになったそうですが、その時のエピソードを聞かせて頂けますか?
「もともと林(立夫氏)らとは、“ブレッド&バター”のバッキングをやっていたんですが、その後、“タイガース”が解散した時、岸部シローさんが“ブレッド&バター”とジョイントして、全国ツアーをやる事になったんです。
だけどベースがいなくて、そこで急遽、(僕が)四ッ谷のスタジオに呼ばれましてね…お兄さん(当時・サリー、現在俳優の岸部一徳氏)からフェンダーのJAZZベースを借りて練習したんです。で、その翌日か、翌々日にはもうツアーに出掛けてましたね。勿論、楽器もずっと一徳さんのベースを借りっぱなしで(笑)…それが、初めてベースギターを弾くきっかけになったんですが、その後のアルバムでも、ベースを弾いてるんです。」
では、自前のベースを持たれたのはいつ頃だったんでしょう?
「20歳の時、小坂忠さんのバックバンドを作ったんですが、その時、やっと自分のベースを買ったんです。メンバーは、林氏(ドラム)、松任谷正隆氏(ピアノ)たちもいて、当時(埼玉県)狭山のアメリカ村(米軍のキャンプ場)のハウスを借りていました。入間川に近い所で、月1万2千円位の家賃で合宿してたんです。別棟には、小坂さんや細野(晴臣)さんなんかも住んでいて…この後、“サディスティックス”を組む高橋(幸宏)氏も、この頃からの付き合いでしたね。とにかく、学校の仲間やら、プロの仲間やら混在している――そんな楽しい時代でした。(笑)」
当時の後藤さんのまつわる話題としてはもう一つ、“ティン・パン・アレイ”(細野晴臣氏、林立夫氏、鈴木茂氏らが在籍した音楽集団)から出されたアルバムの中の、『チョッパーズ・ブギ』についてですが、あの時の“チョッパー奏法”というのは、かなりの話題になりましたね?
「あの(チョッパー奏法=ピックを使わず、指で直接弦をはじく奏法)弾き方については、ただ他の人達よりちょっと早くチャレンジしただけです。最初は(僕も)どういう風にやるのか分らなくて…海外のプレイヤーのものを、耳だけで聴いて音を憶えた。何度聴いても、指2本だけで弾いてるとは思えませんからね。(笑)想像しながらやった結果が、ああなった。今は“スラップ”と呼ぶらしいですが…。」
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●華やかなべーシストとスタジオミュージシャン――そんな音楽活動の『光と影』
’70年代の後藤さんの活動を振り返れば、サディスティック・ミカ・バンドや、ティン・パン・アレイと言ったバンドで、第一線のベースプレイヤーとして活躍した反面、譜面も読めずに飛び込んだ、スタジオミュージシャンの苦渋の体験もされていらっしゃるとか…。続いては、そんな光と影の思い出を語って頂きました。
ところで、ミュージシャンになられて、一番の鮮烈な思い出と言えば?
「(サディスティック)ミカバンドのロンドン公演で、イギリスを回った時ですかね。地元で人気のあったロキシーミュージックの前座だったんですが、会場は相当広い所で…それはすごく自分に度胸をつける為にも、いい経験だった。見知らぬ国で、見知らぬ人の前で、圧倒されないでやるという…本当に、ミュージシャンとしての度胸がつきましたね。それから帰って来て、加藤和彦さんが抜けたことで、ミカバンドは消滅する訳ですが、残ったメンバーで、別のセッションを作る気持ちで(高中正義氏、高橋幸宏氏らと)、“サディスティックス”を結成したんです。」
逆にスタジオミュージシャンの頃は、色々と苦い経験もされているそうですね?
「最初は譜面が読めなかったので、スタジオから追い返れた事もありましたね。でも、それで引っ込むようなオレじゃなかった。(笑)何故かと言うと…渡された譜面は、どうでもいいようなつまらない事ばかり書いてあるんですよ。コードネームだけ渡されれば、もっといい事をやってあげるのになぁ、と。
でも、(こちらが)譜面が読めない為に帰されるなんて、悔しいじゃないですか。それから自分で、とりあえず低音部記号を勉強したので、その後はソコソコ読めて、どんな現場でも大丈夫になりましたね。」
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●作・編曲、プロデュースの世界にも進出!!
’70年代後半からは、作曲、アレンジ、プロデュース方面での活動を本格化し、沢田研二「TOKIO」(’79年)の編曲をはじめ、シブがき隊、一世風靡セピア、とんねるず、工藤静香など手掛けた作品は、次々とヒットチャートの上位を占めるようになりました。次には、こうした作・編曲を手掛けられる様になったきっかけからお伺いしました…。
「スタジオミュージシャン(ベース奏者)として、歌謡曲のバッキングとかやっていくうちに、レコードメーカーの人と顔見知りになって…そういう人達から、『アレンジもやってみないか?』と誘われるようになったんです。最初の曲は、よく憶えてないんですが、たしか原田真二さんだと思う。(彼は)デビューから3作を1ヶ月毎に出して、その内の3作目の“シャドーボクサー”という曲のアレンジが、チャートに載った最初かもしれない。
その後の“TOKIO”は、アレンジ専門の人が居てプレイヤーがスタジオで譜面を渡されて演奏する時代から、プレイヤー出身の人間が、スタジオでアレンジャーとして動く時代になったのではないかと思うんです。バックにストリングスが大編成で入っている様なものではなくて、いわゆるコンピューターを使って作る音楽で、(僕自身も)編曲賞を貰ったんですから…。」
プレイヤーというより、アレンジャーとして名前が売れてきて、ご自身の音楽活動の上で、何か変化はありましたか?
「ありがたい事ですが、そういう時代なんだなぁと思っていましたね。例えば、(自分としては)ドラムもないストリングスだけでオーケストラのアレンジなんか出来ない訳ですから、つまり自分がいわゆるアレンジャーだと言うより、コンピューターも出てきて、自分も使っていますが…そういう時代の流れの中で成り立つアレンジャーのタイプなんだなと。どこかで、(専門の)勉強をしてない自分というものを常に思っていましたからね。しかし、そういう中で仕事の依頼がある訳ですから、実践で勉強していこうと思ってました。」
一世風靡セピアに関しては、デビュー前から音楽全般のプロデュースも担当されていた訳ですが、その頃のエピソードをしては?
「先方からの依頼で、日本的な楽器とかメロディーラインを入れて欲しいとのリクエストがあった。彼ら自身、デビューする前からすでにストリートパフォーマンスとかをやっていましたから、洋楽思考というより、動きも含めてかなり日本というものを意識していた存在でした。だから、その辺をポイントとして、(作品を)つめていきました。また事前に、渋谷へパフォーマンスを見に行ったところ、どこかで見つけて来た民謡系みたいな音楽でパフォーマンスをやっていましたが…とにかく、その頃から女の子達にはすごい人気でしたね。(笑)」
また、“おニャン子クラブ”ブームというのも、後藤さんなくしては語れないと思うんですが、いわゆるアイドル系の音楽を担当する上で何か意識されることは?
「アイドル系で、(僕が手掛けた中で)一番最初にヒットチャートに載ったのは、近藤真彦さんなんです。男の人はさして問題ないんですが…女の子の場合、ボクの作る“音”というのが“強い”んですよ。そういう意味で、“おさえ”なくてはいけないのかな、という意識は常に持っていますね。特にシンセサイザーのベースでやる時はいいんですが、自分でベースを弾く場合、つい“音”が“強く”なってしまう。分かっているつもりなんですが…楽器を持つとダメなんです。(笑)“唄もの”は、まず唄ありきですから、そういった意味で、サウンド全体のバランス、唄とサウンドの折り合いがどうだったかな?と、いつも気にかけてますね。」
アイドル系、あるいは演歌系にせよ、音楽ジャンルに対するこだわりなどは?
「スタジオミュージシャンの頃は、演歌はたまにしかなかったですね。ほとんどアイドルポップス系のバックでベースを弾く事が多かった。その後も、(仕事の)依頼さえあれば、ジャンルを問わずアレンジしていたので、今でも、ジャンルを意識する事は全くないですね。それに、(僕自身)ピアノを買ったのが遅くて、25歳くらいの時だった。というのもその理由は…色んなジャンルのアレンジを始めた時、ギターだけでは限界を感じて、必要に迫られピアノを買ったんです。」
同じアイドル系で工藤静香さんの場合、デビューシングル「禁断のテレパシー」(’87年)以降、ほとんどのシングルを担当されたそうですが、一人のアーティストをこれだけ長く手掛けるというのも、色々とご苦労があったのでは?
「彼女の場合、シングルが年間4枚のペースで5年間で20曲作りました。ディレクション・プロデュースするのは、キャニオンレコードの渡辺有三さんで、彼(渡辺氏)が最初に『今回は、こうしたい』というコンセプトを立ててくるんです。それ(コンセプト)をもとに、毎回、ボクが作っていたので、マンネリとかは気にならなかったですね。
まあこれは一般論ですが…アーティストが変わっても、20曲も作れば、中には“色こい”作品もあれば、“色うすい”作品もできてきますよね。(笑)
でも逆に、一人のアーティストの良いポイント、悪いポイントまで分かってしまうので、それが良い方向へ働けば“色こく”て良い作品が出来るし…それは常に、ボクらにつきまとう問題ですよね。同じ(イメージの)ものが続けば、良い意味で“個性”と言われるし、悪い意味では“マンネリ”“ワンパターン”と言われる。また、その度ごとに、別の人(作家)が作ったみたいにころころ変われば、カラーが無いとか、無節操と言われる。その辺を了解した上で、バランス良くやることですよ。(音楽業界の)作家は、プロ野球の様に、複数年契約で何曲という事ではないですからね(笑)…。」
ところで、日本テレビでは、「NNNきょうの出来事」(’95年4月〜’02年3月)をはじめ、「ザ・サンデー」(’98年2月)、「ジパングあさ6」(’98年4月)など、色々なニュース番組でもお世話になりました。特に「きょうの出来事」では、音楽面すべてのプロデュースまでしていただきましたが、当時の思い出としては?
「たしか、’94年の暮れから、スタジオにこもって作ったのを憶えてますね。(番組の)タイトルバックは、数秒に限られているので…テレビ的に引きつけるインパクトが大事だと思った。と同時に、横尾忠則(イラストレーター)さんのCGのコンセプトの事も伺いながら作りましたが、テレビを付けていても画面に見入っていなかった人にも、テレビを見させる様なインパクトを与えたいな、と考えたんです。“タイトルバック”が終わって、スタジオに入った“MC”の時の音楽は、ちょっと“和む”ような感じで。“ヘッドライン”に入った時は、また“緊張感”を持たせてとかの流れも考えた。逆に中味のBGMとなると…ドラマと違って感情的な演出がいいのか?ということが問題となる。例えば、悲しいニュースの場合、とことん落とす様な音楽をつけるべきかどうか?また、ヘッドラインニュースも、シリアスなもの、政治的なもの、トピックスなど一緒くたに流れる中での音楽というものは、すごく難しいですよね。かと言って、何でもニュートラルに表現したらいいのかと言うと、そうではない。番組のカラーというのがあるし…これまた難しい。(笑)そもそも毎日、どんなニュースが出るか予測は出来ない訳で、とりあえずヘッドラインなんかは、スピード感とか、テンポ良くとか、そういった曲想にはしましたが…。トータルでは、7年間使ってもらったし、自分の仕事の中でも、相当面白いものだったし、記念にもなりました。」
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●ミュージシャン生活30年を振り返って――
19歳で始まった、ベースプレイヤーとしてのプロ音楽人生。最初はピアノも弾けず、手探りで始めたアレンジの仕事、そして作曲。
これらを振り返ると――すべて実践の現場が、自分を鍛えてくれた気がするとおっしゃる後藤さんですが、これまで30年以上に及ぶミュージシャン生活を振り返られて、ご自身で最も大切にされてきた事は何だったのでしょう?
「(自分が)音楽に興味を持ったのは、単純に、無条件に、“カッコイイナ!!”と思ったからです。だから、日常の仕事の中で、何か息づまった時には、この言葉に帰るようにしているんです。
この感情をなくしたくない。音楽と言う武器を使う以上、基本は“カッコ良く”。14歳くらいで初めて楽器を持った時の気持ちを、いつも思い出すようにしているんです。その中で、色々なジャンルの音楽を作っていく、色んなものにチャレンジしていくのが、ボクの一貫したスタンスでしたね。」
作曲やアレンジの際も、長年プレイヤーとしてやってこられた“こだわり”みたいなものはあるのでしょうか?
「さほどコンプレックスは持っていませんが、正当な勉強をしてない為に、色々な事はありましたね――例えば、先程も話しましたが、『譜面が読めなくて、追い帰された』とか。(笑)でも、音楽って、そんなものじゃないという気持ちが、どこかにあるのかもしれませんね。
いつも、その時の思いとかで(ベースを)弾いてますから、そのニュアンスはボクが学んだ譜面の知識では表現できない。それをする意味もさほどないと思う。この世の中では、譜面になるより先に、“音”があった筈だから…(僕自身も)作曲家だの、アレンジャーだのと、胸をはって言える程勉強していない。しかし、最初に始めたのが楽器なので、そこの部分が…良く言えば自信があるし、そこの部分が…さっき言った音楽のイメージの“カッコ良さ”だし。何より、自分がベースプレイヤーというのが原点で、だから“そこ”だけはなくしたくなかった。
例えば、自分の作った曲が、商店街のカラオケで流れていたりすると、『あ、認知されているんだなぁ』と、それはそれで嬉しいですね。だけどやはり、自分が楽器を弾いて、汗かいて、楽屋に戻って来た時の嬉しさはなくせないんですよ。18年ぶりにCDアルバムを作ったのも、ベースプレイヤーというものをもう一回やりたいなあ、と思ったから。自分にベースというものがなかったら、ここまでやって来れなかったと思いますね。」
では、曲を作られる側の立場として、ヒットの秘訣は何だと思われます?
「まったく分かりませんね。売れなくても、自分の中で良かった曲はたくさんある訳で、またヒットしても、自分では『良かったかなぁ』と疑問が残る曲もある訳ですから…。
当然、歌う人の波とかもありますし、(事務所の)営業力とか、色々な要素が加味されて、ヒットは、そうした総合的な結果だと思う。楽曲のメロディーを書いて、音を作っただけで、『ヒット間違いなし、オレは世の中分かっているんだ』なんて思った事は、一度もありませんね。あくまでも総合的なものと…偶然です。(笑)」
今度は、プレイヤーとしての話題となりますが、つい最近、西麻布の『イエロー』(ライブハウス)でライブにも出演されたそうですね?
「山木秀夫さん(ドラム)のイベントに誘われて、ユニットを組んだんです。CDの上でも、今後、自分のベースソロに加えて、この山木さんとのユニットをレギュラーにしてゆく予定です。」
ところで、音楽以外のことでは、車が趣味とお聞きしてますが?
「’87年にポルシェを買ったんですが、運転が好きで、もっと上手くなりたくなった…。それで、39歳くらいの時、アマチュアレースに出場したくて、ライセンス(A級)を取ったんです。ちゃんと講習会を受けて、ジムカーナーもやって、40歳からポルシェのレースも始めました。近藤(真彦)さん達が出場する本レースの前座のレースをやった事もある。(笑)
今でも、レース仕様のシビックを持ってますが…近頃は、歳とともに目が悪くなっているので、ちょっと控えてます。(笑)でもレースのスタート間際、ヘルメットを被った瞬間の『さぁやるぞ!!』と言った気分が、ベースを持ってステージに立った時と同じなんです。あのワクワクした様な気分というかね…。」
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●今後の抱負、そして夢―――
自分とベースの関わりについて、『たいして音楽理論を知らなかった自分を、多少なりとも成長させてくれたのは、いつもそばにベースという楽器がいてくれたから…』と、ベースへの思いを語っていらした後藤さん。
最後に、これからの抱負は?とお尋ねしたら…
「自分の居場所と、居心地の良いスタンスで音楽をやる事ですかね。
勿論、楽器を通してのもっとポジティブな気持ちはあります…今回出したソロ・ベースのCDは、(次も)よりスピードアップしてやりたいと思っている。というのも、形に残したいという事もありますが、もう一つには、(プレイヤーとして)年齢的に、楽器を人前でいつまで弾けるかと思うと、そう長くはないでしょう。自分の“楽器ライフ”として、もう少しスピードアップして行かないといけない。楽器を持った姿かたちが、人前でいつまでちゃんとしていられるかの不安もありますよね。」
余談になりますが、お子様の年齢もまだ小さいと聞いておりますけど?
「まるで孫のようです。(笑)49歳の時生まれたので、まだ2歳ですが…だから尚更のこと、将来、子供が父親の仕事を認識できる年齢まで、自分がしっかりやっていられるのかの不安と、また、ひとつの証しとして、何かの形(CD)として残したいという気持ちも若干ありますね。」
そう言えば、先日発売されたCDのジャケットも、子供のイメージと一致してますね?
「あれは、木梨(憲武)さんのデザインで、赤ちゃんが母親の胎内にいる時のイメージだそうです。ちょうど、木梨さんの個展が終わったばかりで、彼はこのデザインを描き始めていました。そこで、ジャケットの話をしたら、イメージがぴったり合うので、急いで描き上げるという事になったんです…。」
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見た目には、正直50歳過ぎには見られない出立ちで現れた後藤さん。今なお、バリバリの現役ベースプレイヤーというだけあって、外見も“カッコ”良ければ、ベースに魅せられた熱い語り口も、実に“カッコ”良し。
今後も、ますます若く、エネルギッシュなご活躍を期待しております。
インタビュー/構成 小峰 正博


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