第三回 千住明先生 プロフィール 千住明
'60年10月21日東京生まれ。
幼稚舎より慶應義塾で学び、慶応義塾大学工学部を経て、東京芸術大学作曲科卒業。同大学院を首席で修了。修了作品「EDEN」は史上8人目の東京芸術大学買上となり、東京芸大芸術資料館に永久保存されている。
南弘明、黛敏郎の各氏に師事。
'91年〜'93年東京芸術大学作曲科講師。
'94年〜'95年慶應義塾大学文学部講師 倉俊一)が選ばれたほど、時代とブームを担った昭和の語り部でもある。



[ INDEX ]
●日本テレビとの関りは、話題のTVドラマ『家なき子』シリーズから『世紀末の詩』まで―
●ヴァイオリンに熱中していた幼稚舎時代は、音楽部のリーダー。
●『千住家』のユニークな家風で育てられ、ファミリーの才能開花。
●慶應高校のバンド時代に、早くもプロとして初仕事を―――
●『音楽』への思いが断ち切れず―――芸大受験を決意。
●芸大受験への3年計画と、アルバイトでは人生の貴重な経験も―――
●劣等生から優等生へ。芸大での音楽修行は異文化の世界――
●大学での終了作品『EDEN』に対する想い―――
●人生の楽しみは手料理とワイン ―――"ワイン"の香りにイマジネーションが湧く。
●兄妹初の共作『音楽会の絵』は"運命のめぐり逢わせ"だった。
●日本版モーツアルトのお好みの作曲家は『アルボ・ペルト』――



●日本テレビとの関りは、話題のTVドラマ『家なき子』シリーズから『世紀末の詩』まで―
大学在学中から、すでに作曲家としての仕事もされていた千住先生ですが、日本テレビとの関りは、7年前、日本テレビ系放送のTVドラマ『家なき子』シリーズ((I)94年放送、(II)95年放送。企画・野島伸司)に始まり、その後、'98年放送で同じく脚本・野島伸司氏の『世紀末の詩』の音楽も担当されました。
先ずは、そのあたりのいきさつからお聞かせ願えますか…。
「『世紀末の詩』の時は(脚本家の)野島サンから直接電話をもらいまして、インスト(イストルメンタル=楽器だけの演奏曲)のテーマ曲を書いて欲しいと言われたんです。"これはどうしようもなく報われない、まさに世紀末における究極のラブストーリーにしたい"という(ドラマの)コンセプトだけもらって、自分の好きな曲を書ける…例えば、ヴァイオリンの曲を何曲か自由に書いて良かったので、僕としては非常にやり易かった。それに何よりも嬉しかったことは、野島サンが(出来上がった)デモテープを聴いて、感動と共に電話をくれたことなんです…。普通、デモテープの段階でこういうことがあるなんて信じられない…ホント嬉しかったですね。」
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●ヴァイオリンに熱中していた幼稚舎時代は、音楽部のリーダー。
父親は慶應義塾大学工学部の教授。そしてご本人も、幼稚舎から慶應義塾で学び、2才からピアノ、3才からヴァイオリンを習いはじめたとか。
やはり、音楽との出会いも、随分と小さい頃からだったのですね?
「だけどピアノはすぐ飽きてしまったんです。(笑)何故かといえば・・・ピアノっていうのは(個人の所有物でなく)皆んなで弾くじゃないですか。でもヴァイオリンは自分だけの所有物になる訳ですよね。(その頃は)自分にとってのスペシャリティーが欲しかった訳で、それでヴァイオリンを続けていたんですけど、これも後で、つまんなくなっちゃったんです・・・。ただ僕も頑固なところがありまして、やめるつもりもなく、ヴァイオリンは10何才ぐらいまで持っていましたね。その間、妹の真理子(ヴァイオリニスト・千住真理子氏)には抜かれるし・・・(笑)。やっぱり小学生の頃って、女の子は習い事とか勉強とかは優秀ですよね。(ヴァイオリンは)真理子の方がグングン伸びてきまして、それじゃあ今度は、妹を応援しようということになりました。
でもその頃、幼稚舎の音楽の先生が、僕をとても可愛がってくれたんです・・・・・・。音楽部を僕に任せてくれたりとか、そういう活動の中で、自我に目覚めたのは小学生の時でしたね。『(先生から)君には音楽があるよ!』と言われたのが決定的で、それを引きずりつつ中学校でも音楽部で自由に好きなことをやっていたんです。」
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●『千住家』のユニークな家風で育てられ、ファミリーの才能開花。
ご自身が育った環境を"ヴァイオリン(音楽)と絵(美術)の比率が、ちょうど真ん中で交叉している家"と表現し、「僕も兄貴と共に、机の下に絵を描いたり、宇宙船の基地を作ったり、とにかく絵を描くことは好きでしたね。」と振り返る。
兄・千住博氏は、東京芸術大学美術学部卒業の先輩で、博氏の修了作品も、東京芸術大学買上として永久保存。そして現在、画家として世界的に活躍していらっしゃいます。  ご兄弟揃って、これ程まで絵を描くことに興味を持たれたきっかけは何だったんでしょう
「母がとてもクリエイティビティーのある、工夫のうまい人だったんです。例えば家の窓ガラスが割れていたのがきっかけで、(そこに)色を塗り、ステンドグラスにしてしまう。次には、壁のシミ隠しのためにまた絵を描く・・・僕らはその発想に大変驚かされた訳です。(笑)そこで今度は、そのシミをなぞっていくとクマの顔になるという具合に、いつの間にか、僕らは競って部屋中に絵を描くようになっていったんです。」
そうした母親から、何より自由奔放なイマジネーションを教えられたとおっしゃる千住先生ですが、では実際に、どの様な"父親像""母親像"をお持ちだったのでしょうか?
「母は才能のかたまりの様な人で、彼女(母)が本気で何かを始めたら、想像力の面で僕らは誰もかないませんでしたね(笑)。ただムラ気で何でもやるんですが、勤勉さがなかったですかね・・・(笑)。逆に父から教えられた事は、"努力"の大切さなんです。父は『人間、生まれながらの才能なんてたかが知れていて、所詮、同じ様なものだ。結果を出す人生の方程式は、才能×(かける)努力=(イコール)結果』―――これが父の口癖でした。ですから(妹の)真理子が、12才でヴァイオリニストとしてデビューした時も、周りからは"天才"とか色々もてはやされましたが、それが彼女(妹)に対する父なりの解答でしたね。とにかく父には、小さい頃から『努力せよ!』という事を徹底的にたたき込まれましたね・・・。」
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●慶應高校のバンド時代に、早くもプロとして初仕事を―――
中学校の音楽部では"JAZZ"に熱中。さらに慶應高校では、プロとして初仕事も体験するほど、音楽的にはかなり"早熟"だったと言う千住先生。
続いては、青春時代の音楽にまつわる楽しい思い出を語って頂きました。
「高校になりますと、色んな種類のバンドをかけ持ちしましたね。一方で、クラッシックのオーケストラでヴァイオリンを弾きですね・・・ロックバンドではキーボードをやり・・・でも中学ではドラムもやっていたので、自分のバンドではドラムを叩く・・・これはバリバリの"フュージョンJAZZ"ですよ。(笑)そのうち大学のビッグバンドの手伝いをしたりして、高校2年の時、完全に音楽で生きて行こうと思いましたね。(笑)・・・ですからその頃、色々とアルバイトめいた事もして、ひとつはデモテープのアレンジなんですけど・・・アレンジャー、キーボーディストとしての仕事。もうひとつは、外国曲の採譜(メロディーを楽譜に書きとること)とか。とにかくその頃は、大好きなことが出来て、嬉しくてしようがなかったですね・・・。(笑)」
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●『音楽』への思いが断ち切れず―――芸大受験を決意。
慶應義塾大学では、期末テストの折、試験をサボってレコーディングの仕事に行ってしまったと言うエピソードがある。しかしそれを転機に、長年慣れ親しんだ慶應義塾をやめ、芸大受験を志したと言う千住先生ですが・・・
"受験"を決意された、一番のきっかけは何だったのでしょうか?
「(大学時代も)僕は色んなジャンルのコンサートとか仕事をしていましたが、そのひとつを兄貴が聴きに来ましてね。当時、兄貴はまだ芸大に通っていたんですが・・・その兄貴が『お前はプロの音楽家になれ!その為には、わが家では芸大に入らないと許されない。入ってみないとダメなんだ。』としきりに説得する訳です。『じゃあ分かった。芸大の作曲家を受けます。』と即答しましたね・・・。というのもその前に(期末テストをサボった時)慶應から呼び出されて、決定的に音楽で生きて行こうかなとは思っていましたからね。」
でも、その時お父様の反応はいかがだったのでしょう?
「うちの父というのは、すごく純粋な人なんで、『それは良かった!(息子の)明はやっとやりたい事を見つけた・・・こんな喜ばしい事はない』と言って、勝手に大学に行き、僕の学籍の除籍届を出して来てしまったんです・・・その時は僕もあせりましたね。(笑)そしてわが家では、喜びと共に乾杯させられ、それからですね・・・(今後の人生を)もっと真剣に考えなければいけないと、お尻に火がついたのは・・・。」
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●芸大受験への3年計画と、アルバイトでは人生の貴重な経験も―――
"30才までに人生を決めればいい"と言う父親の助言をよりどころに、難関の芸大受験に取り組んだ3年間。またその間、アルバイトでは人生の貴重な体験や素晴しい人たちとの出会いもあったそうです。
「(その時)人生このままじゃまずいなと思って、とりあえずシミュレーションとして廃品回収業のアルバイトをやりました。2トン車で、横浜中のゴミを集めて回るんですが…そこで色々な事を学びましたね。僕としては、いざとなったらこの仕事に戻ればいいという覚悟までしていました。しかしその中で、一番思い出に残っているのは、先輩のオヤジさんにとても優しくしてもらった事なんです。例えば初めのうち、ゴミの臭いが強くて食事が出来ず、僕がカップラーメンを食べていると『そんなんじゃ力がつかないから、米を喰え』と、自分が夜食で食べる筈だった弁当を半分分けてくれたり…真心というか、優しさというか、そのオヤジさん、僕のことを親の様に心配してくれるんです。だから今でも僕は、どんなにアカデミックであっても、どんな音楽を書こうとも、(あの時の)オヤジさんの様な人に伝えられるものでないとダメだ…僕の音楽的水準は、そこにあるんです。そして、3年かかってやっと芸大合格までこぎつけるんですが、とにかくその3年間―――かつての友人関係も断ち切り、芸大受験とは、(受験勉強を)ここまでやらなくてはならないのかと思う程、生きているのか…死んでいるのか…分からない状態での受験でした。」
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●劣等生から優等生へ。芸大での音楽修行は異文化の世界――
""慶應時代"は、音楽ばかりやっている劣等生。ところが"芸大"では、一躍優等生に変身してしまったとか。『とにかく全然、世界が違うんですよ。友人の目つきですら、こうも違うのか。』と驚かされてしまったそうです。
「(芸大生というのは)普通、中学、高校の頃から叩き込まれて来てますからね。まあそれは、すごい世界でしたね。いま振り返ってもびっくりします…。だけど何事も、修行期間というのは必要だと思います。特に『音楽』は、ひとつのラングエージ(言葉)なので、会話が出来るまで…時代をあやつれる様になるまで…少なくとも10年はかかる。本当に語学と同じだなあと思いますね。でもひとたびマスターしてしまえば、芸大の勉強というのは、今まで遊びでやっていた音楽というものが、どうしてこうなるか?すべて解決する理論を教えてもらいました。五線紙に表現できるものは、すべて理解出来るというものなんです…。例えば今、フィーリングで音楽をやっている人は必ず壁にぶちあたる。そしていつかは、これ(芸大での学問)を学ばなければならなくなる。そう言う意味で…ムダな遠まわりではなかったと思いますね。」
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●大学での終了作品『EDEN』に対する想い―――
大学院の修了作品として発表された『EDEN』は、史上8人目の快挙といえる東京芸術大学買上となり、芸術資料館に永久保存されている。
やはり、この作品に対する思いはひとしおなのではないでしょうか…。
「『EDEN』に関していえば、(ジャンルは)"電子音楽"なんですが、電子音楽というのは、60年代にはじまり80年代に殆ど頽れてしまって…これに未来はないという様な風潮がありました。ただ僕の恩師が、それにもめげずやり続けていて、その姿に共感したこと。それから、どうせ頽れてしまうのであれば、僕の力でもう一回息を吹き返させてみようという気持ちからですね。電子音楽の中で、いかに音楽(作品)にするか…音楽って一体何か…まあこれは一生の課題なんですが、人の心に入っていけるかって事、何か主張をもって音楽として捉えられるかと言う事ですかね。そういう意味で書いたんです。だけどこの作品を、芸大の教官の中でも電子音楽を否定していた人が『これに音楽を感じた』と言ってくれたので、良かったと思いましたね…。」
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●人生の楽しみは手料理とワイン ―――"ワイン"の香りにイマジネーションが湧く。
少年時代からの夢は『コックになること』だったとおっしゃる千住先生。小さい頃から"嗅覚(におい)"に関しては特別敏感だったそうで、今なおワインと手料理をこよなく愛する。それらも、作品に対する想像力の源になっているのかもしれません…。
「僕は昔から料理が好きで…例えば、母は真理子の(ヴァイオリンの)レッスンについて行ったりとかで、母の代わりに家族の為にご飯を作るのは僕の役だったんです。その頃は、ただハンバーグを焼くだけとか簡単なものだったんですが、それがたまらなく好きでしたね。(笑)それからもうひとつの理由として、僕は昔から"匂い"に敏感な子で、何でもすぐ匂いを嗅ぐので、皆んなからおこられた事もあります。嗅覚にするどくて料理好き、そんな僕は昔から『将来、コックになる。』って言ってたんですよ。不思議なもので、音楽と料理とか…作曲と料理って、似て否なるものなんです。時間芸術であって、創造性、イマジネーションが必要とされて、非常に似ている。今でも仕事に息づまると、色々考えて(手料理を)作ってみたりしているんです…。」
たしかにヨーロッパでは、料理といえばワインが付きものですが…香りにこだわるという点でもワインがお好きなんでしょうね?
「仕事で、10数年間もヨーロッパを旅しますと、けっこう舌も肥えてしまいます。(笑)とにかくワインというのは、ビン詰めされてから何年待っていようと、開けたらその場で飲まなくてはならない…はかない存在です。食事をするその空間の、たった2時間位の為にある訳で、例えば音楽作品にしても、舞台とか映画の作品にしてもそうですが、一般客に耐えられる時間は2時間なんですよ。そういったギリギリのものを持ちながら、香りから、いくらでもイマジネーションが湧いてくるものですよね…だからワインに似たものを感じますね。」
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●兄妹初の共作『音楽会の絵』は"運命のめぐり逢わせ"だった。
昨年3月、千住兄妹初の共同作業(コラボレーション)によるジョイントコンサート『音楽会の絵』が開かれた。これは画家・博氏の絵画をテーマに、明氏が書き下ろした『ヴァイオリンコンチェルト』を、妹の真理子氏が演奏するというもの。
次に、このコンサートについての感想を伺ってみました…。
「当初、自分が"ヴァイオリンコンチェルト"を書くのは、まだ早過ぎると思っていたんです。しかし結果…これは運命のいたずらでした。父は昨年9月に亡くなったんですが、父のこの世の最期に、兄妹3人で共作出来たことは意味がありました。あの観客の拍手は、父に向けられたものだったと思いますね。父にとっては、子供3人の完成をみた訳ですから…自分達はまだ完成していないのだけれど、なんで運命というのは、一番いい時に、一番いい事が起きるのかと思いましたね。何と言うか…決められていたかの様に…幻のように過ぎたコンサートだった。仕組まれていたとしか思わざるをえない、何か強い力がありましたね…。」
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●日本版モーツアルトのお好みの作曲家は『アルボ・ペルト』――
今後の抱負は"45才からシンフォニーを書くこと"だとおっしゃる千住先生。日々、仕事に対してはどの様な心掛けをお持ちでいらっしゃるのでしょう。
「与えられたこと(仕事)を、ひとつひとつ丁寧にやっていくことで、決して売り込みはしない…これは案外大切な事なんですよ。縁のないものを無理矢理作っても、ロクな事はないですからね。来たもの(仕事)はきちんとやり、(今後)音楽業界に貢献していきたいと思っています。」
一見、現代版モーツアルトを彷彿とさせる様な先生のイメージから、最後に『お好きな作曲家は?』とお聞きしたら…
「ちょっとマニアックなんですが…エストニア出身のアルボ・ペルト。日本ではあまりポピュラーではないんですが、欧米では、彼の新作アルバム発表と共に、CDショップのクラッシックセクションの壁が、アルボ・ペルト一色になるくらい流行っています。とても大人の音楽で、クラッシックの作曲家ですが、いま風に言えば…"癒し系"(の音楽)とでも言うんですかね…。(笑)」
そんな素敵な笑顔から、まだ40才の若き作曲家の優しさと才能を感じさせられました。今後の大いなるご活躍を期待いたします…。
インタビュー/構成小峰 正博
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