第四回 森浩美先生 プロフィール 森浩美
放送作家を経て、'84年から作詞家として活動を始める。
現在までの作品総数は約600曲を越える。 近年では、SMAPの「青いイナズマ」「shake」やKinki Kidsの「愛されるより愛したい」などのヒット曲多数。異色なところでは、日本ドッジボール協会・副理事長としても多忙な毎日を送っている。



[ INDEX ]
●"お婆チャン子"で内弁慶だが、無類の野球好きだった少年時代
●人生の転機―1年間のアメリカ留学で得たもの。
●放送作家への弟子入りがマスコミデビューのきっかけ、 そして花形の作詞家に―
●"作品の締切り日を守る"のもポリシーのひとつとか―
●ヒットメーカーの余業は、ミュージカル脚本から商品開発までの多才ぶり。
●作詞のテクニックを活かし、今年、恋愛小説の"短編集"も出版―
●趣味がこうじて、元祖『日本ドッジボール協会』の設立者に―
●いま主流の作詞スタイルとは? ―そして、このたびの杉山清貴さんとの出逢い。
●そして今後の夢、抱負は―



●"お婆チャン子"で内弁慶だが、無類の野球好きだった少年時代
昔、17才でお嫁にきた祖母は、まだ40代の若いお婆さんだった「本人からすれば(ボクのことを)自分の子供みたいに思っていたのかもしれない」と過去を振り返る森先生ですが、まずは、そんな小さい頃のお婆チャン子ぶりの思い出から語って頂きました。
「子供の時はとにかく内弁慶な子でしたね。幼稚園の頃、お婆チャンが送って行ってくれないと、ずっと一緒にいてくれないと泣いて帰って来たりね。また『英語がしゃべれないので外へ遊びに行けない』なんて変な理屈をこねたらしいですよ・・・と言うのもその頃、一番下の叔父はボクと一回りぐらいしか年が離れてなくて、学生で実家にいたんです。その叔父が、英語を勉強しているのを見てそう思ったらしいんですがね。(笑)・・・」
そもそもご両親のしつけは、厳しいほうだったのですか?
「まったくの放任主義でしたね。ボクももともと根はマジメでしたから(笑)・・・他人から後ろ指をさされるような事はしなかった。"森サンちの浩美チャン"は優秀だと言われたし、小学生までは神童だった。(笑)そして小学校に入ってからは、小児喘息をわずらったせいか1,2年生の頃、殆ど休みがちでしたが・・・3年生になると急に元気になりました。(それからは)いわゆる学級委員長みたいな事をやったりとか、生徒会の役員になったりとかしてね。当時から、企画(する事)が好きで、生徒会でこうやるああやるなど、企画をたててはやっていたような気がしますね。あと(もうひとつ)は野球ひと筋でした・・・」
当時ヒットしていた人気漫画『巨人の星』(当時NTV系でアニメ放映)に憧れて始めた少年野球。背番号も主人公・星飛雄馬と同じく"16番"だったとかで、その頃からの熱烈なる巨人ファンぶりは今なお続いているそうです・・・
「小学校では、まだ軟式(野球)でしたが、クラブ組織で色々な大会にも出ました。 ポジションはピッチャー。(打順も)殆ど3番を打ってましたね・・・でも、野球そのものが本当に好きになったのは中学生の頃でしたね。それからもうひとつ、中学時代にはギターも始めたんです。思えば今の素地がそこにあるのでは・・・(演奏は)コピーをやっていたんですけど、時にオリジナル(曲)なんかも、生意気にね。(笑)その時にボクは曲ではなく詞を書いていたんです。ものを書くこと自体は、小、中学校で色々賞をもらっていたりして・・・多分(ボクは)他人様よりものを書くのが得意なんだろうという自覚はありましたからね。 」
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●人生の転機―1年間のアメリカ留学で得たもの。
大学受験に失敗。親は浪人をしても進学をすすめたが「どうせ四年間、執行猶予で遊ばせてくれるなら、そのおカネを今まとめて自分に欲しい!」と両親を口説きおとして、ロサンゼルスへ留学。この一年間が、自分の人生にとって非常にプラスになったとおっしゃっていますが・・・そもそもアメリカへ行きたいと思われたきっかけは、どういう理由からだったのでしょう?
「(ボクが)高校2年生の時、(自分の家でも)ワシントン州シアトルの高校生のホームステイを引き受けたんです。そしてま近に彼を見て、アメリカって面白いなあ、と・・・だって彼は、17才で日本に来てる訳でしょ。十代で他(の国)を見るのはいいなあと、漠然と思っていた。
でも(親は)大学うかってから行きなさいという話もありましたが、(自分としては)とにかく19才のうちに行ってみようと・・・一応、留学という形はとっていましたが、いわば"遊学"ですね。明日の事は考えなくて良かった・・・親のカネで遊んでいたようなもんです。(笑)
毎日していたことは、たくさん映画を観たり、ライブハウスにも行ったし、イーグルスの解散コンサートも見たし。あの頃スポーツでは、ナブラチロアが全盛の頃で・・・テニスを見たり、とにかくアメリカにあるすべてを体験しました。それが今になって非常にプラスになっている。何故かと言えば・・・たとえば(詞の中)で"青い空"って書いた時、オレはあのサンタモニカの"青い空"を知っているという気がするんです。ちょっとキザな言い方ですがね。(笑) 」
アメリカ生活で、逆に価値観が変わったことなどはありましたか?
「まず第一に、アメリカに対する"幻想"みたいなものが無くなりましたね。人間の暮しとしては(日本と)そんなに変わらないんだって・・・ボクは田舎の出身だから、アメリカ人って皆モデルさんみたいにカッコいいとばかり思っていた。ところが現実は、カッコいい人はごくひと握りで、ああロサンゼルスも田舎なんだーてね。(笑)少しホッとしましたけど。」
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●放送作家への弟子入りがマスコミデビューのきっかけ、 そして花形の作詞家に―
帰国後、大学受験のため東京で一人アパート暮らし。しかしその間、小遣い稼ぎのつもりでひょんなきっかけからマスコミの仕事をする様になったそうですが、つぎはそのあたりのいきさつからお聞かせ願いますか?
「一番仲のいい友人が、放送作家の弟子入りをすると言うので、当時、奥山サン(大橋巨泉事務所所属のベテラン放送作家、奥山イ光伸氏)の所へ、ボクも一緒について行ったんです。そしたら(奥山サンから)『お前も書きたいの?』と言われて、小遣い銭も欲しかったし、そのままズルズルと(笑)・・・。でもふつう弟子なんだから、師匠(奥山氏)にくっついて行かなくてはいけないのに、けっこう要領が良くて、自分で仕事をとって来てしまったりとかして『お前は変わったヤツだ!』と言われました。(笑)まぁ放送作家としては、たいした実績を残していませんから、おこがましいんですが(笑)・・・」
そしていよいよ作詞家へ転身される訳ですが、その理由は何だったのでしょう?
「(放送作家を)2、3年やってるうちに、先輩達は良かったかもしれないけど、オレ達の時代にはもうこの仕事は向かないかな、という気がしてきて迷いはじめたこと。それに何をやっているのか、親に(仕事の)説明をしづらい部分があった。そこで、せめてもの親孝行というか、自分の名前がピン(=一人)で出る仕事は何か?と思った時、一番手っ取り早いと言ったら怒られるけど・・・"作詞"と思ったんです。そしてある日、奥山サンに告白したんですが、言っちゃったからにはやらなきゃいけないという訳で、作詞家修業に転向。その時の目標が、(作詞を)3年やってヒットが出なければやめる決意でした。でもおかげ様で、(ヒットチャートの)30位、50位ぐらいの作品はそこそこ書いてたんですが、なかなかヒットが出ない。もうダメなのかなあ・・・と思いつつもちょうど3年目に入った年、荻野目洋子チャンの作品(『Dance Beatは夜明けまで』)が初登場(ヒットチャートの)4位!・・・ボクとしてはすごくラッキーでした。」
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●"作品の締切り日を守る"のもポリシーのひとつとか―
尊敬する作詞家の一人が康珍化氏で「康サンの詞には、ストーリーや訴えるべきものがあって、個人的にも大ファンなんです」とおっしゃる森先生。マスコミ業界では珍しく、今まで作品の"締切り日"を遅れたことがないという優等生ぶりですが、ご本人いわく、これもプロとしてのポリシーなんだそうです。
「だって、仕事は発注されるうちが花ですから(笑)・・・。締切りを守るというのも、それほどカッコいい理由ではなくて、自分をプロテクト(=保護)するという事なんです。『ボクには非がないよね』という状況を作りたいんですよ。どんな事でもそうですけど、『ボクは締切りを守ったよ。なんでキミは(約束を)守れないの?』という、(相手を)せめる材料として・・・ある意味では、自分を守る為に、締切りも守るという事です。プロは遅れるのが当り前というのは、押しも押されもせぬ人のことで・・・ボクはそこまでじゃないと思ってる。自分をどこかで律していかないとダメになっちゃうし、来るものは拒まずです・・・熱意があって発注してくれるのであれば、ボクはやりますよ。(笑)いつでも、若いプロデューサーが発注しやすい人(作詞家)になりたいと思っているんです。」
ちなみにご自身として一番好きなジャンルというのは?
「特にないですが、ただ最近の傾向というのは、SMAPに代表される様に、日本語をこわしてしまっている詞を書いているもんですから、そういう印象が強いんでしょう。『森はラブバラードを書けない!』と思っている人がたくさんいるらしいんですけど・・・『オレは書けるよ。昔、さんざん書いたんだから、自信があるよ。』て・・・本人としては起承転結のある詞は、好きだと思っている。最近は、仲々、そういう発注がこないんです。(笑)」
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●ヒットメーカーの余業は、ミュージカル脚本から商品開発までの多才ぶり。
作詞業のかたわら、コメディーミュージカル('86年、三越劇場正月公演、朝丘雪路主演、津川雅彦演出『あたしは・・・男』)の脚本を書かれたり、また、ロッテ商品('95年全国発売『運の王様』)の企画開発も担当されるというマルチ才能を発揮されていらっしゃいますが、続いては、そうした余業に関するエピソードの色々をお伺いしてみました・・・。
「(ミュージカルの時は)津川サンが、若い作家とやりたいという意向があったらしいんですよ。ある時、グランパパ(津川氏の事務所)に呼ばれましてね・・・自分では、まだお芝居を書いた事がなかったので、やらせてもらいました。内容としては(映画の)"ビクター・ビクトリア"と"Mr.Mrs."を足して二で割った様なコメディーで、ボクが下書きをしては、津川サンがそれを直していくという作業でしたね。でも(ニューハーフ系の)勉強の為に、津川サンの自宅で、朝まで何本もそっち系のビデオを観たり、取材と称してニューハーフ・バーへも飲みに行ったりと(笑)・・・大変でしたが、とても楽しかったですね。」
また作詞活動以外の分野でも、広告代理店の新人研修の講師を務められたり、ロッテ商品の企画開発も担当されたりと、幅広いご活躍ですが、それらもすべて"企画"に関するお仕事だったんですか?
「広告代理店の時は、新入社員に企画書の書き方を教えて欲しいと頼まれましてね・・・しかし実際には、それ以前の問題で、皆まだ社会人としてなっていない。一から始めて月1回で6ヶ月の間に、20人の新人に森流の企画法をたたき込みました。(笑)でも、人には教えてみるもんだなあ・・・と思いましたね。自分の考え方を、(自分自身で)もう一回確認する事が出来たし、はじめは一枚しか企画書を書いてこなかった人が、だんだん(企画書が)厚くなってるし・・・それを見ていて嬉しかったですね。
またロッテの企画の場合は、たまたまロッテさんから、新しいお菓子の"企画もの"をやりたいという話がありまして・・・2人の新入社員をアシスタントでつけるので、彼らを鍛えながらやって欲しいと言うんです。
そこで、ボクの考えた"運"というものをテーマにしたいという事になりまして・・・この"運"という言葉は、本来大人が使うべき道具だと思った訳です。大人は『運が悪かったね』と言った時、一応そこで区切りをつけて、前へ進むために"運"という言葉を使うんです。ところが今や、子供の世界も大人化していて、例えば中学受験に失敗した時、『運が悪かったね』と言わないと先に進めない。きっと"運"がいい、悪いというのも子供たちにひびくんじゃないかと提案した訳です。おかげ様で、この"運の王様"という商品も、2年間で全国発売となりました。
もともと作詞家としてのジャンルが突出してるので、そのイメージが強いんですが、実は、そんな(企画の)仕事のほうも'90年代以降はかなりやり始めているんですよね。 」
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●作詞のテクニックを活かし、今年、恋愛小説の"短編集"も出版―
雑誌の連載がきっかけで、今年4月には、恋愛小説の短編集『推定恋愛』(2001年4月講談社文庫刊)を出版されましたが、本人いわく「恋愛とは―例えば"こたつ"の様なものであるという答えがあって、これは放送作家時代のギャグの発想なんです。」とみずからの作品を分析していらっしゃいました・・・。
「何か作詞家が書くもので、作詞家らしいものはないかなと考えた時・・・短編小説を思いついたんです。その頃、色んな人が"恋愛論"ていう本を出していて、ひとつの切り方として『恋愛とは、こういうものである』というカテゴリーを持つようになった。しかし、年間100本、200本の詞を書く立場として、ひとつの"(恋愛)論"でくくる事が出来るのであろうかと・・・"論"であれば、"たぶん"というものがある筈だし、今の自分には、そっち(=たぶん)の気分のほうが近いのではないかと考えたんです。そしてこれに当てはまる"推定"という言葉が思いついたんです。タイトルは、その頃、ハリソン・フォードの『推定無罪』という映画がはやってまして、よしっこれを頂こうと(笑)・・・。1600字ぐらいで一話だったら、ふだん文字を読まない女の子達でも読んでくれるんじゃないだろうか。また、自分の側から書くとてれがあるけど、女の子の側から(=女性一人称)書いた方が、今は女性の時代なのでマッチするのではないか・・・いわば、しおりのいらないハードブックのつもりなんです。」
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●趣味がこうじて、元祖『日本ドッジボール協会』の設立者に―
'90年、発起人として『日本ドッジボール協会』の設立に参加し、初の全国統一ルールをまとめあげたという経験をお持ちですが・・・  
そもそも、ドッジボールにこれほど興味を持たれたきっかけとは何だったのでしょう?
「講談社の連載で"ドッジボール"をテーマとした漫画の原作を頼まれまして・・・ルールが分からないとストーリーが作れないので、文部省で調べてみたんです。そうしたら、ナントいまだに全国統一の正式なルールがない事が分かったんです。(笑)『ならば(自分たちで)ルールを作ろうか』という事になって、まずはPRのイヴェントをやる為、サンスターがスポンサーになってくれました。
次には"協会"を作ることになって、『オレたちも、ひとつ位、胸をはれる事をやろう』という訳で、将来は、これ(協会)を財団法人にするつもりで、森喜朗(元首相)サンに初代会長を頼んだんです。
当時、森サンも大変のってくれましてね・・・その後、あれよあれよと思っている間に、幹事長となり、首相にまで出世されちゃいましたが(笑)・・・。ある意味では、ボランティア活動みたいなもんで、10数年続けてきましたが、(選手が)小学生対象なので、学校の先生みたいなものです。でも、あるメンバーがしみじみ言ってたんですが、『男には2つの仕事があって、1つは生活の為の仕事。もう1つは世の中に貢献する仕事があるけど・・・この2つが出来るオレ達は幸せだなあ』て、皆で感動してましたね。(笑)それでも、毎年やめようと思いつつ、地道にコツコツと、昨年で10周年を迎えられたんです。 」
こと協会の話題になると、熱のこもった語り口の森先生ですが、この10年間、組織作りにあたってのご苦労なども伺ってみました・・・
「組織を作るという事では、いい勉強をさせてもらいましたが・・・(マスコミの)業界内で仕事をしていると、気づかない事とか、例えば県庁、教育委員会、JA(農協)とかへ足を運び、当初は、"作詞家"という肩書を出さず、"ドッジボール協会"の副理事長の立場で接したんです。若かったせいもあって、仲々理解されなかった。最初の1、2年は(自分が)ルールを作った本人ですから、ボク以外教えられないんですよ。地方に審判員も育てなければならないので、土・日は殆ど出張・・・今は、県協会も全国に出来たし、本部は虎ノ門(東京都港区)にあります。でも、これらの事務作業を通じて、ルールを作る為、人間の動きを"文章化"する事はいかに難しいことか・・・本業の作詞の方が楽ですね。(笑) 」
そもそも"ドッジボール"とは、いつ頃から日本で行われていたのでしょう?
「明治時代なんですが、ベースとなったのはドイツの『ヘッズベル』という競技が一番似ているそうです。(日本に入って来た)当時は、富国強兵のひとつに利用されていたとかで、各地域、地域のローカルルールをまとめるのが大変でしたね・・・どこへ行っても必ず『おいっ、オレのところのルールはこうだゾ』という人が出て来るんです。(笑)たしかに根づいたものは方言だから、それはそれ・・・『ただ地方と地方が(違う)方言でしゃべっても意志の疎通は出来ないのだから、共通語を作りましょうよ』と一ヶ所ずつ説得にまわった。我々は、ただ勝つことだけを目的にはせず、ルールの中に色々な理想をこめたんです。それに、そもそも"ドッジ"とは、かわす、逃げるという意味のスポーツなんだから、逃げても何らはずかしくない(笑)・・・。だから野球やサッカーが出来ない子供も入っていいんだよってね。ルールは1チーム12人。ところがある父兄は『同じ学年で12人集めるのは大変だ』と言われたので、『同じ学年じゃなくてもいいじゃないですか・・・兄弟でいい、強い子、弱い子まじっていい、そうした中で、いい上下関係を作っていくのもこのスポーツの主旨なんです』と説明しました。ですから、初期に参加した子は、もう22才になって、後輩たちの面倒を見ている人も協会にはたくさんいます。その面では、続けていて良かったなあと思いますね・・・でも今、バブルがはじけて、スポンサー状況が厳しい現状なんです。ぜひ皆さんも、ご支援の程、宜しくお願いします。」
◇日本ドッジボール協会
〒105-0001 東京都港区虎ノ門5-11-13 虎ノ門RICHビル8F
TEL:03-5776-1830 FAX:03-5776-1840
URL:http://www.dodgeball.or.jp
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●いま主流の作詞スタイルとは? ―そして、このたびの杉山清貴さんとの出逢い。
今の音楽業界はサウンド重視で、曲(メロディー)が先に作られる、いわゆる"曲先"が主流となりつつある中、「仕事的には、作詞にシワよせがくる事が多いですね」ともらす森先生。しかし、前から大ファンであった杉山清貴氏と組まれた今回の新作には「杉山サンご自身も気に入って頂いているのでは・・・」と、謙虚にも自信を持たれているそうです。
「いまの仕事は、9割方が"曲先"なんです。若い頃は、ひとりよがりで自分の詞を書く意識が強くて、強引な(メロディーへの)はめ方が多かった・・・でも、年をとって形になってきました。(笑)よく、『森サンの詞はメロディーが走る』て言われるんですが、今は、このメロディーを活かしてやらなければという意識が強いですね。もともとボクは、仮説をたてて、実証する理科的な事が好きなんですよ。
例えば、ブラビ(ブラックビスケッツ)の『スタミナ』という作品の時は、自分がガンの疑いで人間ドックに入りブルー(な気分)になっていた時なんですよ・・・けっきょくは何でもなかったんですが、退院してきて、スタッフの皆で『人間やっぱりスタミナが大事だよね』という事から、この曲が出来たんです。(笑)
次の『タイミング』にしても、ビビアン(ビビアン・スー)の間のはずし方が面白いという話しの中から生まれて来たんです。ちょうどその頃、"いじめ"が問題になってる時で、世の中、無理に合わせようとするからいけない・・・タイミングがずれていても、またそれが楽しいじゃないかというコンセンプトからあの曲が出来たんです。 」
このたび作詞を担当された、杉山清貴さんへの思い入れは、以前からかなりのものとお聞きしていますが?
「今回、自分でもすごく気に入った作品を書いたんですけど、ボクがいま、生で思ったそういうものを表現してくれるアーチストは、杉山サンしかいないし、杉山サンの声自体、昔から大好きだったんですよ。ボクが作詞を始めた頃、杉山サンはもうオメガトライブでドーンと売れていましたから・・・よもや、仕事を共にさせて頂けるとは夢にも思わなかった。(笑)今までは10代の子のものをメインに書いてきたので、(自分の)年相応のものを書くチャンスがなかったんです。同じつらいと言っても、10代のつらさと40代のつらさは全然違うもので・・・その点、杉山サンがつらい、悲しいと言った時、それなりの重みは絶対出るに違いないと思うです。」
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●そして今後の夢、抱負は―
最後に、これからの抱負は?とお伺いしたら「50才で引退。小さな巨泉56才で芸能界をセミリタイアした大橋巨泉氏のこと)になりたいんです」というコメントが返ってきた。はたしてその真意はいかがなのでしょうか?
「本音では、ボクも30年働けばいいかなという思いと・・・逆に、あと10年位はガンバリたいという夢があるんです。でも今、ピークを迎えてしまったから、あとはくだる一方だし、ボロボロになった森浩美を見られたくないんですよ。(笑)」
という言葉も、ひとつの人生の美学なのかもしれません。ドッジボールの話題では、少年の様に目を輝かせていたヒットメーカー、森浩美先生の、今後ますますのご活躍を期待いたします。
インタビュー/構成小峰 正博
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