はじめに…
当社は、1999年10月、創立30年を迎え、これまで多くの作家の先生方に素晴らしい作品を書いて頂きました。ホームページを立ち上げるにあたり、ぜひ先生方の生の声を皆様にご紹介したいということで、この“作家の横顔”を企画いたしました。
第7回目は、SMAPのヒット曲で一躍脚光を浴びる、異色の作曲家コモリタミノルさんです。


プロフィール
1959年2月10日。大分県日田市生まれ。
'83年、九州大学大学院農学部食料科学工学科の修士課程終了。同時に大学院生の頃から音楽活動を始め、'82年、第24回ポプコンつま恋本選大会に「ドキドキTalking」(作詞・作曲・唄)で入賞。翌年第25回同大会では、小森田実&ALPHAとして出場。「フォリナー」(作詞・作曲・唄)がグランプリ受賞。その後、一時はバンドでのレコードデビューもはたしたが、'84年以降、バンドより離れ作曲家としてヤマハ音楽振興会に在籍。'89年、「夏だけのディアーナ」でソロデビューをはたす。'95年より、作詞・作曲・音楽プロデューサーとして幅広い音楽活動を行っている。
代表曲は、SMAPの「Shake」「ダイナマイト」「らいおんハート」、BLACK BISCUITS「Relax〜リラックス〜」、aiko「あした」等々。
中でも「らいおんハート」は、昨年度JASRAC賞の銅賞に輝いている。



[ INDEX ]
●お父様は高校の英語教師で、ただひたすら厳しかったとか――そんな厳格な家庭に育った少年時代。
●昼は研究室で実験に明け暮れ、夜は楽器店のピアノで練習という二股の大学生活―――
●就職決定も辞退し、ついにバンドでレコードデビュー!
●'80年代のポプコン全盛期に生まれたコモリタサウンド。しかしその時代、日本の音楽シーンの転換期でもあった。
●作曲家としてのデビュー作は、当社も制作に携わった、森川美穂のシングル「教室」―――
●“スティービー・ワンダーとレオン・ラッセルが、音楽の師匠だった”。そんなコモリタミノルのバックボーンになっているもの―――
●多くの競作の中から選ばれたのが、SMAPの代表曲『らいおんハート』―――
●コモリタ流、曲作りのポリシーとは―――
●唯一の趣味は、充電をかねた海外ひとり旅―――
●今後の抱負、そして夢―――



●お父様は高校の英語教師で、ただひたすら厳しかったとか――そんな厳格な家庭に育った少年時代。
『生まれは大分県の日田市ですが、2才位までしか居なかったので殆ど記憶がないんです。その後は、福岡県に移りました…』とおっしゃるコモリタさんですが、まずは懐かしい少年の頃の思い出からお話し頂きました。

ところで、お父様は高校の先生をなさっていらしたそうですが、しつけの方はいかがだったのでしょう?
「(父は)特に教育面では厳しかったですね…自分の(教師という)手前があるので、ボクら兄弟(弟と2人兄弟)にも年中『勉強しろ、勉強しろ!』という感じでしたね。だからと言って敢えて自分から勉強するほうでもなかったのですが(笑)。その頃は(趣味といえば)音楽を聴くのが好きだったんですよ。母親がJAZZとか、映画音楽をよく聴いていたんで…それを母親がいない時に夢中で聴いていましたね。(母は)昔、“声楽”とかをやっていたそうで、音楽がとても好きだった。僕も幼稚園の頃から、無理やりピアノを習わせられていたんです。でもバイエル(初歩的なピアノ教則本のひとつ)を卒業する位でやめちゃったんですが…(笑)。その後、中学のブラスバンドでアルトサックスをちょっとやって、大学のオーケストラでチェロをちょっとやっただけです。どれもたいした事はなかった…とにかく音楽は聴く方が好きでしたね。JAZZのビッグバンドものを…。」
とすると、どうやら現在のコモリタさんの音楽的な才能は、小さい頃から母親の薫陶によるものが大であると察しられました。
しかし、そんな音楽好きだった少年が、進学されたのは国立の九州大学農学部。ましてや大学院まで進まれたというのは、どういう理由からだったのでしょう?
「これも親父に言われたんですが…当時、就職は理科系、技術系が有利だった。でも、専門の理科系は難しいが、農学部は一番簡単だったので、一応、辻褄合わせで(大学に)入った。父は手に職を(つける)という意味で…エンジニアになれと言っていたので、一応、父のめがねにはかなっていたんです。(笑)そして大学院でマスター(修士課程)まで行ったのは、理科系の場合、最低マスターまで行かないと就職でちゃんとした職が与えられないからなんです。」
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●昼は研究室で実験に明け暮れ、夜は楽器店のピアノで練習という二股の大学生活―――
昼間は、大学の難しい実験に取り組むという硬派な生活の反面、趣味の世界では、夜な夜な、楽器店に通いレンタルピアノで曲作りを楽しんだとおっしゃるコモリタさん。


続いては、人生の転機ともなった大学時代についてお伺いしました。

「実は(大学の)理科系って、夜遅くまでダラダラと実験をやっているんで…そのせいか(皆んな)夕方からテニスを始めたり、夜中から酒を飲んだりしているんですよ。でも僕は一切それをやらなかった。実験は5時ぴったりで終わり!だから…朝、学校へ行ったら、夕方まで目もくれずに実験をやり、結果だけ出してすぐ帰る。それから、今度は楽器店のピアノブースに行って、ピアノを借りては曲を作ったりしていました。」
そうすると、初めての曲を作られたのも、やはりその頃だったのでしょうか?
「大学の4年生位からですから、意外と遅かったですよね…。それまで人前でギターを弾いたりしてた訳でもなかったし、自分が興味を持っていたビリー・ジョエルとか、ビリー・プレストンとか、スティービー・ワンダーとか(の曲)を、ピアノブースに通っては趣味的に練習していただけですから。」
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●就職決定も辞退し、ついにバンドでレコードデビュー!
'83年、大学院の終了時には、“明治乳業”の研究所への就職も決定していたそうですが、しかしそれを辞退し、バンドでのレコードデビューをはたされました。というのも、かたや音楽活動の面で、ヤマハの“ポプコン”に2年連続で入賞していたのが、そもそものきっかけだったとか―――
早速にも、その辺りのいきさつからお聞かせ願えますか?
「当時、(僕自身は)バンドを組む意志はまったくなかったんです。ポプコンの本選会ではちゃんとしたオーケストラが用意されているんですが、リハーサル時間は当日15分位しかない。しかしそれでやるには(僕の)作品が高度な曲だった為、むしろ一人でやるより、バンドで音をかためて行った方がまとまり易いといった理由からだったんです。だからヤマハサイドが、本選会に出る為、便宜的にサポートということで地元のプロのバンドを付けてくれた…。まぁ当時、九州地区はニューミュージックの発信地とも言われてましたから、支部としてのメンツもあったんじゃあないでしょうかね(笑)。しかしその後も、そのままバンドでやってくれということで、レコードデビューまでといった感じでした。」
しかし、一流企業への就職を蹴ってまでもプロの道を選ばれたということで、その時のご両親の反応はいかがでした?
「無論、大反対でしたね…特に父親は本気で怒っていました。おばあちゃんも、大学院の時、初めてピアノを買ってくれたんですが、『自分に責任がある』とか言って、嘆いていました。(笑)それまでは(家に)ピアノがなくて、近所の楽器店に通い借りていましたから…。ただ母だけは、蔭ながら応援してくれていたので、すごく喜んでいたみたいですね。初めて、自分なりに意思表示をしたということで…。」
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●'80年代のポプコン全盛期に生まれたコモリタサウンド。
 しかしその時代、日本の音楽シーンの転換期でもあった。
当時のポプコン出身者として、岡村孝子、辛島美登里、チャゲ&飛鳥など、多くのヒットアーチストを輩出したが、一方で『あの頃は、過渡期というか、世の中が楽曲志向からアーチスト主体の時代へと移り変わって行った』とおっしゃるコモリタさん。そうした音楽シーンの流れを、もう少し詳しくお伺いしますと…
「それはテレビの時代になって、ビデオクリップとかが多くなり、ビジュアルが非常に大事な時代になってきたんです。曲自体の存在感より、アーチストの方がクローズアップされ始めた時期だったと思いますね…たしか、アイドルブームとかいうのも、80年代のその頃でしたから。結局、“見る”というのが大きな要素になって、いくら楽曲が素晴らしくても、演じられない人はやっぱり一曲で終わるというか…一発屋みたいなことで消えて行ってしまいましたね。」
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●作曲家としてのデビュー作は、当社も制作に携わった、森川美穂のシングル「教室」―――
'84年からは、作曲家に転身。それまでアーチストとして育った“ヤマハ音楽振興会”に在籍しながら、本格的作曲活動を始めるが…。ちなみに、作曲家としてのデビュー曲は、当社も制作に関わらせて頂いたそうですね?
「たまたま作家として、最初に世の中に出たのが“森川美穂”の作品で、この日本テレビ音楽の西嶋さんという人が担当だったんです。それに森川さんもポプコン出身者で、地区大会で楽曲だけを提出する人がいて、彼女はその表現者だった。それで、この森川さんのデビュー曲で『教室』というのを僕が初めて担当して、当時は、レコーディングに行くのが楽しみでしたね…。アレンジをしているのを見に行くのが好きだったり、よくスタジオの隅っこで見ていました。(笑)」
コモリタさんと当社との関わりでいえば、現在、オノ・アヤコもご担当をお願いしていますが…彼女の率直な印象をお聞かせ下さい?
「最初に4曲のデモテープを貰ったんですが、歌い方に毒がなかった…逆に言えば、印象に残らなかったりする部分があるんです。これは、作りこまないとダメなんじゃないかと思いまして…何が出来るのかな?と考えた時、(彼女の)デビュー曲の感じとかが、aikoさんや深田恭子さん(二人のアーチストも担当し、ヒットさせる)のデビュー曲とメロディーは違うんですが、同じラインなんです。そこで、クラシックの世界と、今のテクノロジーみたいなものを、怪しいかたちで表現出来たら面白いのではないかなというのがありました。現在、二作目も担当しているので、宜しくお願いします…(笑)」
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●“スティービー・ワンダーとレオン・ラッセルが、音楽の師匠だった”。
 そんなコモリタミノルのバックボーンになっているもの―――
小学校の頃から、母親が聴いていた映画音楽やら、クラシック全集に耳を傾け、時に、ビッグバンドのガーシュインやコール・ポーターに感激したというコモリタさんですが、そんな現在のご自分の音楽のバックボーンになっているものは何だと思われますか?
「特にすごい衝撃を受けたのは、スティービー・ワンダーやビリー・プレストンを最初に聴いた時で、メロディーがきれいなだけの世界が初めにありましたね。そこにリズムという要素が加わって…そういうのを中学一年の頃に知って、何か色々と興味が湧いていきたという感じですかね。次には、レオン・ラッセンのアルバムを聴いていたんですが、あのダミ声というか…普通、商品になる様な声ではないですよネ。(笑)そんな声で歌ってこそ、逆に素晴らしいというか、『くるーッ』という感じなんですよね。」
そして現在、曲作りのほうは殆どピアノでなさっていらっしゃるとか?
「まったくピアノですね。指だけは自然に動くというか…これも幼稚園の時、バイエル程度で終わったものが役立っているんですかネ。(笑)ポップスの場合、あとはコードですから。これも、ただ自分で書いているコードよりも、違う音を入れて遊んでみるのが昔から好きだったですね。それをピアノで作って、パソコンに打ち込んで、デモテープの段階でアレンジをやるんですが…全体が一回見えてしまうと、逆にそのトータルで考えていたことを表現しやすいんです。そこで違ったら、メロディーが良かったから少し変えようじゃなくて、すべてをやめてしまうんです。」
という事は、作家の中には『メロ先』(メロディーを先に作る)、あるいは詞先(詞を先に作る)でなければダメという方も多いですが、コモリタさんの場合は同時進行という事ですか?
「メロディーだけじゃないですね。何かかたまりの様なもので…例えばこういう言葉と、こういうメロディーと、こういうサウンドで、こういう声でと、同時に想像している事が多いですね。そこからメロディーの部分をほどいて一曲のデモテープにするという感じですね…。」
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●多くの競作の中から選ばれたのが、SMAPの代表曲『らいおんハート』―――
作曲家コモリタミノルの名を不動のものにした作品に、SMAPの「らいおんハート」('00年8月30日発売)がありますが、同時に、この曲は昨年度JASRAC賞の銅賞も受賞されました。
SMAPとのコンビでは、以前にも「Shake」('96年11月18日発売)「ダイナマイト」('97年2月26日発売)等のヒット作を生み出していらっしゃいますが…。そこで、こうしたSMAPの作品を手掛けるにあたってのエピソードをお話し頂きました。
「SMAPのものは、毎回、全部が競作(コンペ)だったんで、使われるともなしに出したものなんですが…あの曲(「らいおんハート」)も、多くの作品によるコンペなんで、なおさら残るとは思ってなかったですね。(笑)でも逆に言うと、“自分が歌って楽しいもの”というか、これはSMAP用だから(他の人では)ダメという事じゃどうしようもないんです。使われない事の方が多いという前提で考えると…最低、自分で楽しめるものを作っておかないと。何か時間もムダというか、ただ働きになってしまうんです(笑)…。ですから、そもそもの発想が全く逆で、SMAPだから、こんなものを作らなきゃというよりも、例えば、一回アーチストを考えないで…世の中、いま何が欲しいかという事を先に考え、逆算して、こういうものを彼等だったらどう出来るかという風に考えていく事なんです。
ところでこの競作(コンペ)が、最近の音楽界では主流になっているのでしょうか?
「昔と違って、どんなものでも殆どが競作と考えた方がいいですネ。例えば、実績のある人(作家)に、頭を下げてお願いする様なものは、リスクが大きすぎる事もあると思うんですよ。皆がリスクを背負わないようなシステムになってきていると思う。逆に、こちら(作家サイド)はリスクが大きすぎる(笑)…。だから、単純に作曲家という意味では、なかなかやって行きづらい時代ですよね。」
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●コモリタ流、曲作りのポリシーとは―――
これまでの作品の中には、SMAP以外にも、安室奈美恵、観月ありさ、aiko、深田恭子等々、そうそうたる顔ぶれの作品も手掛けていらっしゃいますが、これからの曲作りをする上で、持っていらっしゃるポリシーはなんでしょうか?
世相を読むという事は、マーケティングですが、100%マーケティングに頼ってしまうと“ミエミエ”というか…誰にでも分かってしまう。そのかわり、その先が面白くない、新しい“驚き”がない。その新しい“驚き”をどうしたいかなという事をいつも考えていますね。だから一番単純に考えるのは、世相を読むという言うよりも、自分が中学生、高校生、大学生だったら何を買いたいかな?これ(作品)を聴いて、買いたいかな?という事ですよね…。だから仕事が来ても、やるだけはやるけど、じゃあそれを、もしかして自分が買いたいかな?例えばディレクターさんなんかにも『この作品、買いたいですか?』なんて聞いてしまうんです。(笑)『買いたくなかったらヤメましょう』という感じになってしまう。いらないものは清算する…人に迷惑をかけたくないですからね。(笑)」
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●唯一の趣味は、充電をかねた海外ひとり旅―――
年に一回位は、敢えてひとりで海外旅行に出かけるというコモリタさんですが、これも次の作品への充電をする意味で、大変役に立っていることだそうです。
「これ位の年になってくると、億劫で家からあまり出なくなってくる…生活の場も非常にせまくなってくるんです。刺激も少ないですし。だから意図的に、1ヶ月位は海外に旅行したりするんですよ。ひとりで行って、最初から困るのは分かっているんですが…やっぱり途中で困ったりして。(笑)でもそうした中で、旅先で気がつくとヒントってありうる気がするんですよ。別にアメリカが特別好きという訳ではないんですが、とりあえずニューヨークに行って…それから南米を回ったりして。バンコクで世界一周の安いチケットとかを買う。それが有効期限で一年間もあったりして(笑)…。でも、年をとって行ける様な場所はやめる、例えばスイスとか、ハワイとかね。そこで、旅先で流行っていうものは、すべて納得出来ちゃうというか…裏付けがあるというか…それを今度、東京へ帰って来た時に、考えることが出来るじゃあないでしょうかね。そう言えば、あのSMAPの「らいおんハート」のアイデアも、そんなライフスタイルの中からヒントを得たもののひとつです。」
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●今後の抱負、そして夢―――
リスナーからの希望としては、今後、ご自身もアーチストに復帰されるというご予定などは?
「実は、方々からお誘いは頂いているんですが。例えば、以前の僕の作品をカバーでやったらとか…でも、それもどうかなと思ってます。(笑)
もうひとつには、今、井沢あやという女性アーチストを担当しているんですが、彼女で、次の何かを作れないかなと考えているんです。日本でも何年か前に、女性R&Bブームというのがありましたけど、今、ニューヨークでは、『WBLS』(FM放送)というR&Bのチャンネルがあって、そこのプログラムが“スムーズJAZZ”というものを意識しはじめている。これは、JAZZではないんですが、要するに楽に聴けるもので、以前だったら“大人の音楽”という様な作り方なんです。その辺を彼女(井沢あや)でやったらどうかなあ…とも思っています。空気を歌うというか、そういう感覚なんでしょうね…。」
理科系大学院のマスターコースを終了されているだけあって、曲作りに対する姿勢は、いつも生真面目に実験をくり返し、理論を構築していくタイプのコモリタミノル。
いずれ近い日、国内でも“スムーズJAZZ”系のサウンドが聴かれることを、大いに心待ちしております。
インタビュー/構成小峰 正博
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