はじめに…
当社は、1999年10月、創立30年を迎え、これまで多くの作家の先生方に素晴らしい作品を書いて頂きました。ホームページを立ち上げるにあたり、ぜひ先生方の生の声を皆様にご紹介したいということで、この“作家の横顔”を企画致しました。
第8回は、このページとしては初の女性作曲家大島ミチル先生です。


第八回 大島ミチル先生 プロフィール
ロシアのオーケストラでの録音にて、
大島先生(右)
長崎市出身。3人姉妹の次女として生まれる。国立音楽大学作曲科卒業。在学中から、作・編曲家としての活動を始め、映画音楽、CM音楽、TV番組音楽、アニメーション音楽、施設音楽など様々の分野で活躍。在学中に、交響曲「御誦(オラショ)」を発表。その後もNHKスペシャル「大英博物館」「太平洋戦争」「生命〜40億年はるかな旅」などの大規模な番組も手がけ、各界から注目を集めている。その他、映画「釣りバカ日誌」「失楽園」「長崎ぶらぶら節」や、TVドラマ「ごくせん」「よい子の味方」NHK朝の連続テレビ小説「あすか」など多くのヒット作品もある。第21回、第24回、第26回の三度に渡る日本アカデミー優秀音楽賞、毎日映画コンクール音楽賞なども受賞。また、吉永小百合さんの原爆の朗読詩「第二楽章」の音楽も手がけ、各地で朗読会に参加するなど幅広い活動をしている。



[ INDEX ]
●泣き虫で“お母さんっ子”だった少女時代――――
●“創作好き”は、テレビ局の報道マンだった父親ゆずり
●小学校6年生で初めての自作曲を発表―――それがなんとロック音楽だった。
●エレクトーン世界大会では、史上最年少のグランプリ受賞!!―――少女演奏家として世界の注目を集める。
●音大在学中に、初めての交響曲『御誦(オラショ)』を発表
●プロの世界に入ったきっかけは、大学時代のアルバイトから―――
●親友・国府弘子さんとは、度重なる海外旅行での珍道中も―――
●昔、母親から聞かされた原爆への思いと、吉永小百合さんとの朗読会。
●映像音楽に対するこだわりと、森田芳光監督との出会い。
●『大島ミチル』風、オリジナリティーの魅力とは―――
●自然とみずからの音楽的バックボーンになっていったもの。
●一年前に開設した、ホームページへの思い入れ―――
●今後の抱負、そして夢―――



●泣き虫で“お母さんっ子”だった少女時代――――
幼い頃は、とにかく人見知りの激しい子で、母親以外の人にはなつかなかった大島先生だそうですが、一方、物心ついた頃より「絵画教室」や「オルガン教室」にも通われていたとか…。
まずは、そんな懐かしい少女時代の思い出からお話いただきました。
「音楽より先に、2才位から絵を習っていたんです。というのも家で、落書きばかりするので絵を習わされたみたい。(笑)当時は、ものを表現するために“描く”という事が好きだったみたいですね。次には姉が音楽教室に通っていた時は、そこへ母に連れて行かれると、一人で歌ったりわめいたりしていたので…。今度は幼稚園の時、オルガン教室に入れられたんです。(笑)人見知りする子でしたが、そういうものを与えられると、自分で表現するのがとても好きだったみたいですね。でも家の中では、母がいなくなると、いつもピーピー泣いていたみたいです。それ(泣き虫)が直ったのは、ある時、母が結婚式に出かけて、私を他人に預けたんです。母が心配して帰ってきたところ…(私は)なんでもなかった。それまでは、母がお風呂に入っても、御用ききのお兄さんが来ても泣いていたらしいんです。」
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●“創作好き”は、テレビ局の報道マンだった父親ゆずり
先生の本名『ミチル』は、小説『青い鳥』(メーテル・リンク作)の主人公“チルチル ミチル”の名から付けられたとか。名付け親である父親は、元長崎放送の報道マンで、小さい頃から、ものを書いたり作ったりする事が好きになったのも、そんな父親の影響が大きかったそうです…。
ところで、お父様はどの様なお仕事を?
「長崎放送の報道制作(という部署)で、ドキュメンタリー番組を作っては、民放祭などにも出品していたんです。家でも、絵を描いたりしていました。私も小さい頃から、放送局に出入りしていたので、今でも(テレビ局には)まったく抵抗がないんです。(笑)父親に連れられては、局でエレクトーンを弾かせられたりして…物作りが好きになったのも、そんな父の影響でしょうね。別に音楽一家ではないんですが、両親共、(自分の)好きな事をやらせてくれて、進路を決める時も、『あなたがこうしたいなら…』と。これをやりなさいと言われた記憶はないですね。絵を描く事も、上手ではなかったんですが…とにかく好きだったので、音楽の道でなければデザイン関係(の仕事)に進みたかった。あと建築とか、インテリアとか…デザインに興味があるのは、絵を習っていた影響かなとも思いますね。」
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●小学校6年生で初めての自作曲を発表―――それがなんとロック音楽だった。
エレクトーンを正式に習い始めたのは小学校2年生(7才)の時で、4年生(9才)の頃には、コンクールという新たな目標が出来て、ひたすら練習に明け暮れる毎日だったとか。さらに小学校6年生(11才)の時、みずから作曲した作品『狂ったロボット』を発表するが、当時、子供にしては珍しいロック調の音楽だったため、周囲も度肝を抜かれるというエピソードが残されているそうです。
そもそも作曲を始められたのは、いつ頃からなのでしょう?
「(自分で)書き始めたのは、小学校4年生ぐらいから、エレクトーンの授業の一環として作曲していたものが多いんです。でも、人前で初めて発表したのが、この『狂ったロボット』で…たしか、その頃読んだ本の中味を題材に曲を書いたものです。音楽的には5拍子のロックだった。当時は基礎的なクラシックが当たり前でしたから、かなり変わっていると思われたでしょうね…(笑)。でも自分としては、小学生の頃からブラスロックを聴いたり、ビートルズを聴いたりで、特にロックが好きでしたからね。」
しかし、それから2年後の全国大会で、今度は『藍の幻想』という現代音楽にもチャレンジされていらっしゃいましたが、この現代音楽を作曲されたきっかけは?
「その頃、エレクトーンを習っていた先生が、色々な音楽を聴かせてくれたんです。たとえばジャズ(の練習)に入った時には、モダンジャズとか。それから少し難しい音楽というところで…武満徹さんが発表した『ノーベンバーステップ』のレコードを貸してくれたんです。たしか小澤さんの指揮で、アメリカで演奏されたものなんですが。それを聴いた時は衝撃的で、ああ私もこういう曲が書きたいなァーと思ったし、それがクラシックに入るきっかけにもなりましたね。でも(大会の)審査員の方には、あまり評判がよくなかったんです。子供らしくないと…(笑)。海外の審査員の中には、面白いと言ってくれた方もいたんですが、日本国内の審査員の方には、とてもませた子供に映ったんでしょうね。(笑)」
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●エレクトーン世界大会では、史上最年少のグランプリ受賞!!―――少女演奏家として世界の注目を集める。
高校1年生(15才)の時、日本を代表してフランスへの演奏旅行。さらに翌年、エレクトーンコンクール世界大会では、16才で史上最年少のグランプリを受賞し、一躍世界的にも脚光を浴びた大島先生でしたが、その時、ご本人からすれば人生の一大転機が訪れたのだそうです。早速、その時のエピソードからお聞きしてみました。
「世間で受けとられているのとは逆で、その時(グランプリ受賞)、自分としては演奏はもういいや!と思ったんです。と言うのも、その頃、電子楽器がちょうど成長期でもあって、毎年毎年、楽器が新しく変わっていくので、それをやらないといけない事とか、(自分は)身体が小さくて負担が大きかったので、演奏はもうやめようと決心したんです。勿論、親にも笑われましたよ…普通は『賞』をとってそこからプロの演奏家になるのにって。(笑)でも自分には、その頃、ロックやポップスばかりやっていて、クラシックの基礎をちゃんと勉強してないというコンプレックスがあったんです。だから音楽大学を受験した時も、基礎を習いたいので作曲科を選んだんです。」
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●音大在学中に、初めての交響曲『御誦(オラショ)』を発表。
国立音楽大学の作曲科では、音楽理論を島岡譲先生に師事し、徹夜で『和声』や『フーガ』の宿題をこなす毎日だったそうです。さらに大学以外でも、ジャズピアノやポピュラーアレンジ、シンセサイザー、指揮法などの猛勉強。在学中の最後には、初めての交響曲『御誦(オラショ)』も発表されていらっしゃいます。
ちなみに、この“オラショ”とはどんな意味なんでしょうか?
「ラテン語の“祈り”という意味で、“オラティオン”という言葉があって、隠れキリシタンにその言葉が伝わった時に“オラショ”と訛ったそうなんです。今年の5月に、(この作品を)20年振りに再演するので、書きなおそうと思っています。生まれ故郷の“長崎・平戸”を取材したり、他にも資料を色々と調べました。幼稚園もカトリック、高校も“純心”(女子高校)でカトリック、住んでた近くに教会もたくさんあったし…その点、生まれ育った環境が、このテーマに自然と合っていましたね。」
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●プロの世界に入ったきっかけは、大学時代のアルバイトから―――
友人の紹介により、CM音楽のレコーディングを見学に行った事が縁で、CM制作会社からアルバイトを頼まれたそうですが…。
続いては、CM音楽の仕事をされる様になられたきっかけをお聞きしました。
「大学4年の時、友人から、CM音楽のレコーディングを見に行くけど、一緒に行かないかと誘われて…そうしたら結局、友人は行けなくて、私一人で行ったんです。車のCMか何かで、とても面白くなっちゃって。(作り方も)今と違い、フィルムをかけながらレコーディングするんです。その後も、見学できないかなァと思って手紙を書いたら…運よく、そのCM制作会社から『人手が足りないので、アルバイトに来ないか』と電話があったんです。だから学校の授業以外は、ぜんぶアルバイト。(笑)バブルの前だったけど、ものすごい量のCMを作っていたんです。坂本龍一さんや山下達郎さんなど、色々なジャンルの人がCMを書いていた。打ち合わせ現場にもついて行ったし、仕事の手順も憶えやすかったですね。そして、初めてお金を頂いた作品が『求人タイムス』のCMソングで『いとまきまき編』でしたね…。」
さて、その後の音楽活動については後半でお聞きしますが、ちょっと話題をかえて、お友達関係についてお伺いします。
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●親友・国府弘子さんとは、度重なる海外旅行での珍道中も―――
先生と同じく、国立音楽大学のピアノ科を卒業後、現在、国際的なピアニストとして活躍中の国府弘子さんとは、公私共々の大親友とか。プライベートでも年に一回は2人だけの海外旅行に行かれては、数々の楽しい想い出やエピソードが残されているそうです。
たとえば、どの様な珍道中ぶりがあったのでしょうか?
「ある年末、バリ島へ2人でバカンスに旅立つ前日の夜中なんですが…国府さんから、半泣きの電話が入ったんです。『パスポートが見つからないよ〜!』って。『よ〜く探して』って言ったんですが、それから朝方までの数回のやり取りでも、見つかる事はありませんでした。にもかかわらず、箱崎での待ち合わせの時間に、彼女は(パスポートもないのに)スーツケース持参で現れたんです。(笑)『見つかったの?』と聞いたら、『見つからなかった』って。2人で落ち込んだまま、リムジンバスの中で話したんです。記憶によれば、『最後に見たのは、マーケットで一緒にパスポートのコピーを取った2ヶ月前!』そして成田に着いた途端、国府さんは思い立った様にマーケットへ電話を入れたのです。そしたらなんと、マーケットに パスポートがあったんです!さて、そこからが勝負なんですが…彼女はマーケットのおばちゃんに、持って来て欲しいと交渉するんですが、当然『無理です』と言われてまた落ち込んでた。そこで私が一言『タクシーの運転手に預けてもらったら』と。そうなんです…パスポートだけを乗せたタクシーが、成田まで飛ばしてやって来てくれたんです!そして成田にパスポートが着いたのは、出発の30分前。2人で走ってカウンターへ!何故だか持って来ていたスーツケースの中には、万全の体勢が出来ていたんですから…(笑)無事に行けたこの珍道中でしたが、『最後まで人生はあきらめたらいけない』と言う教訓になったかどうかは分かりませんけどね。でも、万が一のためのスーツケースと、機転をきかせたタクシーの一案で、無事バリ島で年末年始を迎えることが出来たんです…。」
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●昔、母親から聞かされた原爆への思いと、吉永小百合さんとの朗読会。
吉永小百合さんの原爆の朗読詩「第二楽章」「第二楽章〜長崎から」の音楽を手がけ、各地で朗読会にも参加していらっしゃる大島先生ですが、そんな吉永さんとの出会いを『幼い頃、毎日の様に母から聞かされた原爆の話を、改めて胸の深く刻み考えるきっかけになりました』とおっしゃっていられました。そこで、この朗読会での吉永さんとの交流をお伺いしました…。
「この朗読会は、地方も合せると何回もやっていますが…長崎での制作発表、浦上天主堂、大阪など。彼女(吉永さん)も食べる事が好きで、現地へ一日前に入っては、一緒に温泉に入ったりしています。彼女は(年齢は)はるかに先輩ですけど、誕生日が近くて、血液型も同じO型で、行動パターンがよく似ているんです。(笑)お互い、気が楽にいられるし…。子供みたいに若々しくて、行動的。一般的には、女性らしくて大人しいイメージですけど、全然違う。勉強家で、努力家で、水泳が得意のスポーツウーマンなんですよ。」
さて、このあと再び、音楽の話をお伺いしたいと思います―――。
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●映像音楽に対するこだわりと、森田芳光監督との出会い。
映像音楽の本質とは『最終的に、作り手がいて、聴き手がいる。だから少しでも聴く人の心が“元気”になれる様な音楽を書きたいですね。』とおっしゃる大島先生。「ごくせん」や「よい子の味方」(ともにNTV系放送)にしても『聴いた後に、心がすっきりする、ワクワクできる様なものをイメージした』のだそうです。
また、映画監督の森田芳光さんと仕事をした際には、こんなこだわり振りのエピソードも残されています。
「森田監督とは、最初『失楽園』という映画を一本やりましたが…ものすごく個性が強いし、自分の思っている音楽像、作品像がはっきりある方なんです。だからそれを違えると“絶対違う!”と言ってくる人。でも『失楽園』の時は、多少のやりとりはあっても、最終的に問題なく終わったんですが…。『模倣犯』の時は、大変だろうなと思いましたね。まずデモテープを渡しておいたら、その日の内にスタッフから電話が入りまして、『今日、伺いたい』と言うんですよ。だから覚悟して待っていたら…夜の8時半頃、森田監督とスタッフの方がみえました。それから監督が画を見せながら、音楽を入れたい所を指示するので、私が即興で音楽をつけて、それを監督が聴いてOKを出すという具合で…。その音楽を同時にパソコンに取込みながらの作業でした。夜中の3時頃までに、30曲位のすべてを作曲しましたね。(笑)その後で、今度はパソコンのデータをオーケストラの楽譜にするんですが、この作業がまた大変!即興で弾いているし、システマチックな曲ではないので、同じ所が一ヵ所もない。即興性のものを、オーケストラにおこすのは、メチャクチャ大変でしたね…(笑)でもそれは、監督との闘いでもありましたし、終わってみれば、お互いに楽しんだと思います。(笑)」
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●『大島ミチル』風、オリジナリティーの魅力とは―――
大島先生の作品といえば、オーケストラやシンセサイザーを巧みに操り、壮大でドラマティックなスケールのあるサウンドと、美しいメロディーが各界から注目を集め、多くの熱烈なファンがいらっしゃるとか―――そんな大島ミチル作品の魅力とは、一体どこにあるのでしょう?
「私は考えるタイプではなくて、映像を見るとイメージが湧いてくるんです。オーダーによっては“○○風”に書く事もありますが、だいたい自分がイメージしたものを音にしていく。それが、大島ミチルの音楽なのかも知れませんね。感性中心というか…とにかくこのドラマだったら“楽しく見てもらいたい”とか、“やさしい気分になって欲しい”とか、そういう事をメインで頭に描いて書く。音楽というよりは“気持ち”優先みたいなところがありますよね…。それに、スタッフからのアイデアというのも、すごくプラスになりますね。たとえば『ごくせん』の時、面白かったのは演出家が“ウエスタン”のCDを持って来たんです。なるほど…そういうアイデアもあるんだなァと思って、『ウエスタン・ハリウッドみたいなものも、面白いんじゃない!』と言ったんです。ただウエスタンだけでは、日本ではなかなか受け入れられないので、ハリウッド映画みたいな楽しさが必要だと思い、ああいうスタイルにしたんです。他の作品にしても、その時々によって、まずスタイルを決める事が多いですね。今回はマーチで行こうとか、ミュージカルで行こうとか、…自分なりに、テーマを決めて取りかかるんです。」
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●自然とみずからの音楽的バックボーンになっていったもの。
エレクトーンを習い始めた小さい頃、周囲の子供達は、基礎的なクラシックばかり勉強している中、自分だけは、好きなロックやポップスを弾いていたという大島先生。それが現在のご自身の音楽的バックボーンになっているのではないでしょうか―――。
過去に学んでこられた事で、今のお仕事に役立ってることもございますか?
「ビートルズとか、映画音楽とか、メロディーのきれいなものをたくさん聴いたり、弾いたりしているので、メロディーがいかに大切かと言う事が、自分の身体の中に、自然と染みついているんです。そういう意味で…私の書くものは、クラシックというより、もっとポップス的なんじゃないかと思いますね。“メロディー”を大切にしたいという気持ちは、その頃の体験が一番影響していると思います。ロックとか、ジャズとか、ラテンなど色々なジャンルの音楽を聴いていたので、演出家の方から『こういうスタイル』と言われると、すぐ分かるんです。自分で言うのもなんですけれど、幅の広さというか…引き出しがあるというか…。
もともとロックが好きで、“エマーソン・レイク&パーマー”なんかが好きでしたね。“エマーソン・レイク&パーマー”は、クラシックの曲をカバーしているんですね。『展覧会の絵』とか色々なものをね…それでチャイコフスキーをカバーしているのを聴いて、後から本物のチャイコフスキーを聴いたり…つまり、先にカバーを聴いてから本物のクラシックを聴くみたいな、他の人とは学び方が逆だったんです。(笑)」
ところで、プロの作曲家になられてから、音楽的に変わってきた事というのは?
「つい10年位前までは、カラーがはっきりしていました。たとえば“明るい”か“暗い”かや、“楽しい”か“悲しい”かが…。いわゆるグレーの音楽が書けなかった。精神的にあいまいな、中間色的なバリエーションというか、微妙な色というか。それを書ける様になったのが『失楽園』からでした。明るいけれど、ちょっと距離をおいて見守るような温かさ、みたいな音楽が今は書けるようになりましたネ。」
それでは、いま現在、最も気になって興味をひかれている音楽というのは?
「私はニュース番組の音楽が好きなんです。海外旅行に行って面白いのは、その国のニュースの音楽がそれぞれにカラーがあって…アメリカだと『ハリウッドスタイル』なんです。イギリスに行くと、いわゆる『ブリティッシュロック』で打ち込みのもの。ポルトガルへ行くと『アフリカのパーカッションの入った民族音楽』、フランスに行くと『ストラビンスキーの“春の祭典”のモチーフをちょっとアレンジしたもの』で、皆、ニュースのテーマ曲っていうのははっきりとカラーがあるんです。日本の場合は、時間帯で作り方が違い…朝はさわやかなイメージ、夕方は料理をしている主婦を振り向かせるものといった具合に…。日本テレビでは、いま放送中の『バンキシャ』を書かせて頂いています。(笑)」
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●一年前に開設した、ホームページへの思い入れ―――
もっと沢山の人に、映像音楽の素晴らしさを知って欲しいとの理由から、ご自身のホームページを立ち上げたのが、ちょうど一年前。今では、毎日のダイアリー(日記)を公開されていると同時に、ファンからのメッセージも殺到している為、忙しいスケジュールの合間をぬっては、出来る限りのレス(ポンス)を書き込んでいるのだそうです。
ちなみに、このインタビュー取材が行われた3月28日のダイアリーを、原文のままご紹介しますと
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3月28日(金)
昨日は長編アニメーション映画「ももこ、かえるの歌が聞こえるよ」の録音でした。予定よりも早く無事に終える事が出来ました!5月には公開されます。お楽しみに!それから桜の開花ですね?大好きな季節です。近所に川沿いで綺麗な所があるのです。今年も楽しみ。
*大島ミチルホームページアドレスhttp://www.michiru-oshima.com
「ホームページも見てくれてる人の中には、仕事関係の人も多いんです。たとえば、この前、映画の仕事をやっている時、ダイアリーに『今日は徹夜です』なんて書くと、現場のスタッフがコンピュータに向かって『大島さん、頑張って下さい』と、拝んだりするらしいんです。『やっと終わった』と書くと、『お疲れさまでした!』との返事…家で書いている時は、気分転換にもなるんです。人前にあまり出ないし、そういう所でしか自分の発信が出来ない。ただ、他のページもなかなか更新できなくて、友達のページなどは、一年余りも同じ“国府さん”なんです。(笑)」
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●今後の抱負、そして夢―――
では最後に、長年映像の仕事をされていらして、一番感じられていることと、これからの抱負をお聞きしたいと思います。
「最後はスタッフワーク、人間なんですよ。人の力というのは凄いと思う。オーケストラの80人、100人となると、見えないエネルギーみたいなものが、人の演奏にはあると思うんです。生の演奏というのは、音に、人の持っている“たましい”とか“エネルギー”が集まるから素晴らしいと思うんです…。
是非やってみたいのは、ビックバンドみたいなサウンドで、ドラマの音楽を書いてみたいんです。自分の身体の中の、音楽的ベースというのはポップスなんですが、それを、オーケストラで表現するか、ピアノ一本で表現するかなんです。それに、仕事の方向性としては、テレビや映画などの映像に、もっと音楽をつける方へ絞って行きたい…より映像音楽にこだわりたいですね。」
演奏家としては、史上最年少で国際的な賞をとられたり、映像音楽の分野では超売れっ子作曲家であるにもかかわらず、ご自身の姿勢からは、ただ『作品を聴いてくれる人を喜ばせたい』『音楽を続けることが唯一の幸せ』と思える程のひたむきな純粋さを感じさせられました。これからも、素敵な音楽の“青い鳥”を見つけられますように、心から声援をお送りいたします。
インタビュー/構成 小峰 正博
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