日本テレビ系作品のサウンドトラックでは、「日曜ドラマ」枠の『トドメの接吻』(2018)や、今も支持されているアニメーション『寄生獣 セイの格率』などの音楽を手がけているKen Araiさん。
アーティストとしてのデビュー、レーベル・スタッフなどを経て、映像のサウンドトラックまでの異色の経歴は、人と人との出会いがもたらしたものです。
ギターとの出会い、学生時代のエピソード、アーティストのプロデュース、「a la i.」名義による自身のアーティスト活動、 DJの側面、サウンドトラックの音楽制作エピソードなどを語って頂きました。
僕はギターでメシを食べられればと思っていたんです。子供の頃からさかのぼってお話しますと、父親はサラリーマンでエンジニア、母親は服飾関係で両親共に手先が器用なんですけど、家族に音楽的素養がある人は誰もいなかったんです。80年代の高校生なので、友達と遊びながらFMの番組をエアチェックしては、カセットテープに録って音楽を聴いていました。
群馬の高崎に住んでいた中学生時代。その頃は身長が低くて華奢だったことからいじめられたり、いわゆる帰宅部で、何をやっても長続きしなかったんです。
義務教育が終わると初めて自分で学校も含めチョイスできるので、一生懸命に勉強して、そこそこの高校に入学できました。それと同時に高校デビューというかエレキギターを買ったんです。初めて触った瞬間にこれだ!と思い、そこから音楽にのめり込んでいきました。手先が器用な両親の良いところを受け継いだのか、手がすごく良く動いて、早弾きなどもすぐにできるようになりました。学校にほぼ行かなくなって、毎日ギターを弾きながら、世界一のギタリストになりたいと思っていたんです。高校生くらいだと大したことをやっていなくても早弾きができればモテてたりしましたね(笑)。ブルースやロックのペンタトニック的なフレーズではなくて、メタルの超早弾きで。当時はまだネット時代ではなかったので、耳コピの意味も知らず、チューニングもどうやったら良いのかということすら情報がなかったんです。バンドスコアを買ってもあの頃は採譜の精度が低い本もあって、弾いてみたら音が違うとか(笑)、とにかく自分で覚えていきましたね。
当時はBOØWY、レベッカ、BUCK-TICKといったビート系バンドが人気でしたが、僕はそっちの系統には行かないで、ジャパメタのLOUDNESSの曲を弾いていたりしました。LAメタルにもハマりましたね。バンドを組み、ギターにのめり込んでいるうちに高校3年になったのですが、いろいろやっちゃっていたんで…(笑)父親から、”信頼を回復するなら大学に行かなくちゃダメだ”と言われ。ギターどころか音楽を聴くこと自体も取り上げられました。だから受験勉強を必死でやったんです。音楽を取り戻すために。
必死で勉強して、千葉の柏にある全寮制の外語大に合格。初めて親元を離れることができました。勉強する気はなく、ギタリストになるために上京したいとずっと思っていたので、ギターを2本かつぎ、入学したんです。そこでアメリカ人留学生の女の子と運命的に出会い、恋に落ち(笑)結婚しようと決意。それで大学1年から2年になる春休みに、ロスに帰っているその子に会いに行ったんです。もちろんギターも持って渡米です。でも…よくあるじゃないですか? 行って再会した瞬間「あー、これはもうダメだ」という感じが伝わってきて…。アメリカで一人、ギターを持って、さあどうしよう?と。その後もしばらく、そのままロスにいたんです。当時から有名だったバークレー音楽大学に入学したいとも思ったんですけど、なかなか難しくて結局帰国しました。
大学生時代は、メタルじゃモテないからと(笑)、IQ高めのフュージョンやジャズなど、テクニカルな音楽にハマりました。先輩に教わりながらジャズ研にも入って、ビッグバンドもやりましたね。大学卒業の頃はバブルが弾けた後でしたが、まだ就職難ではなくて、周りの友達はみんな就職していました。でも僕はどうしてもプロ・ギタリスト(セッション・ギタリスト……スタジオ・ミュージシャン)になりたかったので、渋谷にあるアン・ミュージック・スクールという音楽学校に入学しました。90年代序盤ですね。そこで2年間、譜面やコード、音楽理論全般を勉強したんです。
音楽学校に入り、そこで初めて気づいたことがあって、それはライバルの多さでした。ギタリストとして明らかにレベルが違う人たちに初めて出会い、2年間学び卒業した時には24歳。本当はプロのギタリストとしてどこかに雇ってもらいたかったんですが、自分でも無理だと気づいていました。そんな頃、ちょうど流行りの波でアシッドジャズが来ていたんです。ハウスとかクラブミュージック…ダンスミュージックをベースにしたジャジーな歌モノ。そういう波ですね。当時、大学時代の後輩の女の子とユニットをずっとやっていて、(後々、その子とデビューすることになるんですけど) ハードサンプラーを買い、自分で打ち込みをやり、トラック・メイクをして、ヴォーカルを入れて、そこにギターを入れるという作り方を始めました。それが、2003年にデビューするKaori Okanoとのユニット「transluv」だったんですけど、1stアルバムを出して、すぐに解散。
でもそこから、自分で全てを完結させる今の音楽制作スタイルの大元ができたんです。
「transluv」でデビューしたレーベルは、USENが持っていたU’S MUSIC (ユーズミュージック)で、その中のゲート・レコーズでした。その社長が当時、m-floなどが所属していたアーティマージュと兼務されていた浅川さん。ニューワールドプロダクションズの社長である後藤さんが副社長でいらっしゃって、お2人と出会いました。その時は、所属アーティストである僕と社長、副社長という関係で。1枚でユニットは解散してしまいましたが、その後も食っていかないといけないわけです。そんな時に浅川さんからアーティマージュでアシスタントをやってみないか?というお話を頂いたんです。当時、アーティマージュ所属のアーティストはものすごい数がいた上、浅川さんは外部アーティストのプロデュースも多数されていました。アーティマージュにお世話になったのが、今につながる全てのきっかけでしたね。今回のインタビューのオファーを頂いた日本テレビ音楽の浦田さんとも、その当時に出会っています。
アーティマージュではディレクター、A&Rの仕事をずっとやっていました。もちろんギターやトラックを作りつつです。裏方なんだけど、自分の曲も作ることが出来ていたし、今思っても恵まれてましたね。お給料をもらいながら勉強にもなりました。浅川さんとの出会いと、仕事を一緒にさせて頂いたのが大きな転機でしたね。でも、その頃の本心を言うと、ジェラシーの塊(笑)。とにかく自分の音楽をやりたい一心でした。ディレクターの仕事をやっていて楽しかったけど、心のどこかでは、自分が本来、そっち(アーティスト側)にいたいというのがすごくあったんです。それで、結局、4年くらいでアーティマージュを辞めて、2008年に別の事務所からのソロデビューするわけなんです。でもアーティマージュでの4年間の中で葛藤もありましたけど、スタジオワークや対人関係、制作などの予算感、CDの流通とか、裏方の仕事をやることによって知ったというのは大きなプラスになりましたね。今、こういうスタイルで活動していることのベースになっているので。
浅川さんに声をかけて頂ける前はなかなか厳しくて、アルバイトもしていましたね。でも全くつらいとは思わなかったです。
2008年にODE MUSICというレーベルから念願のソロデビューをして、eighteen degrees.名義で2枚のアルバムを出しました。
ずっと温めていた、歌(ヴォコーダー)、トラックメイキング、MIXまで全て自分1人でプロデュースするというエレクトロポップ・プロジェクトでしたね。ちょうどこの頃、DJを覚え、プロモーションで全国のクラブをまわりました。当時出会った、DJ/クラブ業界のみなさんとは、ずっと繋がっていて、今でもゲストDJとしてパーティーに呼んで頂いたり、お酒を飲んだり、いつもお世話になっています。
ただ、もうeighteen degrees.は音楽的にやらないでしょうね。名義的にも、1人のアーティストが名義をいっぱい持つのがオシャレという時代もありましが、今は1つの方が良いと思っています。
僕が一番長く1人のアーティストと関わらせて頂いたのが、日本テレビ音楽の浦田さんともご一緒したRyoheiです。
彼がワーナーミュージックからAVEXへ移籍する同じタイミングでちょうど僕がアーティマージュにアシスタント・ディレクターとして入ったんです。
ほぼ家族みたいな時間の共有感が彼とはありました。ウチに来てもらって、僕がギターを弾いて、彼が仮歌を入れたりとか、ユニットみたいな作り方も良くしましたね。寝ずに朝までスタジオ作業したり、プロモーションでは僕がアコギを持って二人で一緒に全国各地をまわりました。これは本当に特別な体験でしたね。
Ryoheiとの最初の曲が、『神はサイコロを振らない』 (2006)という日本テレビ系ドラマの主題歌で、Ryohei feat.VERBAL(m-flo)の「onelove」 でした。この曲が初めて、アーティマージュのディレクターとして関わった楽曲です。
アーティストのプロデュースというと、曲を作ってトラックを作って、あるいはアレンジして…、僕は歌詞を書かないので、トータルでいうとサウンド・プロデュースでしょうか。でも、この仕事をやっていて、印象に残ったのは、音楽業界やレコード会社の中には、えげつない人間性を持った方もいらっしゃって(苦笑)。ディレクター時代には、相手にしてくれなかった人が、僕が表に出る側になった途端に極端に態度や言葉使いが違ったりとか、手のひらを返すような人がいたり…とか。自分は絶対にそういう人にはなりたくないなと。反面教師です。
“音楽を作る事は自分を省みること”じゃないけれど、売れているアーティストの方はみんな腰が低かったですね。結局はプロデュースと言っても、音楽以外のことが大切だったりするじゃないですか? いくら曲やサウンドが良くても、やっぱり最後は人間性、人と人の関係が1番大事じゃないかと思います。
僕がサントラの仕事をするようになるきっかけは、リア・ディゾンの仕事だったんです。僕は外部のディレクターとして、その発売元だったビクターエンタテインメントの洋楽担当という形で吉田さんと初めて出会いました。現場で吉田さんに、「ディレクターとして来ていますが、こんな音楽も作ってます」ということで、自分のCDをお渡ししました。それから2年くらい経ち、僕のCDを覚えていた吉田さんが連絡を下さったんです。その時、吉田さんはビクターエンタテインメントを辞めてフジパシフィック・ミュージックに転職されていました。中田ヤスタカ(capsule)さんが音楽をやっていた『LIAR GAME』を監督された松山博昭監督が初めて深夜枠のドラマを演出するので、音楽に誰かいない?という話が僕のところにまわってきたんです。『東京リトル・ラブ』(2010)というタイトルで、初めてのサントラ制作のお仕事です。
最初のフジテレビでの打合せを終えて、お台場からゆりかもめで帰る時に、吉田さんが「Kenちゃん、長めの曲を3曲くらい作っておけば大丈夫だよ。向こうでシーンに合わせて切って使ったりしてくれるから」って僕に言うんです(笑)その後、締め切り前日に音響監督のZERO WAVE泉さんから電話がかかってきて「どうですか?」と。どうですかと言われても3曲しかできていなくて(笑)それから吉田さんが僕のスタジオに来て、最低でも30曲は作っていかないとならないので、ここでは多くは言えないですけど、ウルトラCの技を色々と使って、なんとか2人で切り抜けたという思い出があります。今からは考えられないですけど、無知って最強ですね(笑)。
打ち合わせの時に、どのくらいの曲数とか、音楽のメニュー(場面に使う各音楽のイメージなどを箇条書きにしたようなもの)もあったんですけど、僕らの音楽業界とサントラを作る方の音楽業界って、立ち位置、雰囲気が微妙に違う部分もあって、僕らは違うタイプの曲が3つくらいあれば…と思っていたんですよね。例えばメニューには、「悲しいA」、「悲しいB」、「悲しいC」と書いてあっても3つのタイプを作るというのがわからなくて、単に曲のイメージだと当時は思っていたんです。
メインテーマはすぐに完成し、監督もすごく喜んでいたし、こんな感じで良いんだ、という安易な感覚になってしまい…。でもこの経験があったおかげで、サントラ制作がどういうことかを初めて知ることができました。こんなにたくさんの曲が必要なんだということを含め。
この作品では、全て打ち込みではなく生楽器も欲しいということになって、ピアノと胡弓をスタジオで録ったんです。スタジオ・ミュージシャンのピアニストが来て、僕も好きな方だったんですが、譜面が読めない(笑)。その上、両手で弾くところ、片手で単音を弾いていくというとんでもない展開もありました。音に人間味が欲しくて生に差し替えたのに、あまり意味がないという…(苦笑)。一方で、胡弓の方はすごい有名なミュージシャンだったんですが、僕がF#キーの曲なのに調合なしのC majキーで譜面をプリントしてしまい、♯や♭の臨時記号だらけの譜面。それでも普通に弾いてもらえましたけど、あとで「アレは無いよ」と怒られました(笑)。でも、サントラ制作を始めた初期の良い思い出ですね。
『東京リトル・ラブ』の後は、サントラの仕事はしばらくなかったんです。それから2年後くらいに、松山監督に気に入っていただけたとかで、フジパシフィックの吉田さんから連絡が来て、月9ドラマ『鍵のかかった部屋』(2012)を松山監督がやることになったので、「Kenさんどう?」という話を頂き、”僕で良ければ是非やらせてください!!” ということで担当することになりました。
日本テレビ音楽の浦田さんから、この作品の音楽プロデューサーだった千石さんに僕のことをご紹介いただいて、「詳細をお話しします」と、ウチの方まで来てくださったんです。お会いすると千石さんがモヒカンだったので(笑)コレは面白そうな作品だなと思いながら打ち合わせをさせて頂きました。『寄生獣』は原作を読んで知っていましたが、これをアニメでどこまで表現できるのかな?と思いつつ、音楽については好きにやって良いですよと。バキバキにやってくださいというお話でした。
メインテーマは「I AM」という曲で、ダブステップ。あの頃はスクリレックスやポーター・ロビンソンが来ていたし、あまり音楽は作品の内容に寄せないで好きにやって良いと言って下さっていたので、気持ち的にも楽でしたね。
ただ、映画も同時に公開されるというお話だったので、劇場版とは被らない音楽にしたいと思っていました。僕にオファーをくださるということはどんな音になるかきっとわかっているでしょうから、とにかく思いっきりやっちゃおうと(笑)。
音響監督が山田知明さんという方で、最初に納品した楽曲がメイン含めて15曲くらいだったんです。すぐに頂いたレスのメールに、”とても素晴らしいけれど、みんな派手すぎる。もうちょっと中間みたいな曲が欲しい”というのがあったので、その後に、ビートが入っていなかったり、音数が少ない、何気なくかかっているような脇を固める曲を多く作っていきました。
日テレの名物プロデューサー中谷敏夫さんの存在も大きかったですね。「Ken Araiが音楽を担当してくれるのだから」とすごく推してくださって、ラジオやプロモーションにも呼んでいただきました。当時新卒、今やエース(笑)の日本テレビ音楽の穐山さんとも知り合えましたし、音楽以外にも色々なことに絡めたので、この寄生獣チームはとても楽しかったですね。このサントラは今でも海外からの反響がとても多いですから。アニメの音楽は時間が経っても生きているというのを、この作品で実感しています。ドラマの音楽とは違う派生の仕方ですね。
この作品を担当したきっかけというのも面白い縁で、『失恋ショコラティエ』(2014)というフジの月9ドラマの打上げの際に、音響監督の泉さんが作家マネジメント会社デイブレイクワークスの井田さんを呼んでくださったんです。それが縁で「Kenさんはフリーでやられているなら、音源を預かって、営業させて頂いても良いですか?」というお話を頂き、もちろん快諾したのですが、口約束でしたから、忘れているだろうなぁとも思っていました。
それから1年半くらい経った後、井田さんから連絡があったんです!ずっと約束通り、井田さんは僕の音源を持って動いてくれていたそうなんです!そんな中で、世界的に有名なキャラクターの『ピングー』をNHKで新たにリメイクすることになった際、監督さんやスタッフのみなさんが僕の音源を聴いてくださり、初めてNHKに行った時には、すでに僕で決定という話になっていたんですよ(笑)。
井田さんはデイブレイクワークスで作曲家のマネージメントをされているので、本来であれば自社の作家さんをブッキングしたいはず。それなのに、僕を推してくださり本当にありがたいなと心から感謝しています。
『ピングー in ザ・シティ』の音楽は、監督さんからは子供っぽくなりすぎないように、大人が聴ける音楽であって欲しいという基本線の話はありましたが、あとは細かい指定は無かったです。だいたい、いつもそうなんですが、10曲くらい最初に作って、こういうのはどうですか?という、僕からの提案型です。30曲くらいはわりとすぐに作れるタイプですが、それがミスリードになってしまうと良くないので、最初にメインテーマを含めて10曲くらい作り、確認して頂いて、それでOKならばあとはそのテイスト/方向性で作っていきます。
『ピングー in ザ・シティ』は、アニメーター、脚本、NHKの音響チームさんなど関わっている人のみなさんから、モノ作り愛が溢れていました。作品によっては、アフレコなどの音響の現場に作曲家さんは来なくても…というのはあるんですが、ピングーは現場にも呼んでいただいて、より良いものを作りたいというのがヒシヒシと伝わってくる現場でした。声優さんとも仲良くなれたし、新しい出会いもたくさんありましたね。
1月期のドラマでしたが、最初の打合せは早い時期にありました。これは日本テレビ音楽の穐山さんからオファーを頂いたと思います。主題歌は菅田将暉さんで決まっていました。打合せに行くと、演出の菅原監督が「内容的にオヤジはいらないから、ターゲットの層を絞ってキレキレで良い!」と言うんです(笑)。「だからKenさんは思い切りやって」と。ただ、「バンドっぽさ、和モノ・ロック感はあった方が良い」というお話があって、このドラマは東京っぽさというか、ホストが中心のドラマなので新宿歌舞伎町感みたいなところは考えましたけど、ドラマの内容に寄せてということはあまり考え過ぎずに音楽は作りました。撮影現場にも呼んで頂き、出演者の皆さんにもCDを渡せたし、そういう面でも本当に面白かったですね。現場も若くて旬な役者さんばかりで楽しい雰囲気が伝わってきて良かったですし、プロデューサーの鈴木亜希乃さんもとても良い方で、音楽について色々とお話しをしたりして、自由に音楽を作ることが出来ました。
制作中、僕はメインテーマ=タイトルバックだと思っていたんですが、菅原監督と話しているうちに、どうもそうではないらしいというのが伝わってきて、早く言ってよというのはあったんですけど(笑)。12月に入ってもまだタイトルバックが出来ていないという…結局、12月末くらいにタイトルバックはできたんじゃなかったかと思います。割とギリギリでしたね。
僕が関わる作品はギリギリなのが多いですね(笑)。今年(2019年)は1月のフジ月9『トレース~科捜研の男~』を担当していたんですけど、放送が始まってからも、追加の音楽をかなり作ってました。全て自己完結で音楽を作っているので、制作のスピード感は自分の武器だと思っています。映像の編集をやっている2時間の間に、それに合わせた別ヴァージョンも作って完パケ納品ということもあります。そういうフットワークの軽さも込みで、呼んで頂いているのかなと。ただ、スピード感はあっても肝心の中味が…ということは絶対ないように心がけています。
最近会う監督やサントラ業界の人には、僕は4年に1回で良いです、って言ってるんです。忘れ去られたぐらいのタイミングで、パッとやるというのがちょうど良くて面白いのかなと。やりすぎてしまうと飽きちゃうので。今年はいいペースなんですけど、去年(2018年)は月9、ピングーの第2シリーズ、TOKYO MXの『スタミュ』もやって…と、ずっとサントラ制作が立て込み、自分で何を作ってるのか良くわからなくなっていたんです。
鬱とかにはならないタイプだと思っていたんですけど、さすがにちょっとヤバいなと思う時期もありました。いくら好きな音楽でもずーっと自宅スタジオにこもって作っていたら、おかしくなるなと。どうしても楽しいという気持ちも薄れてきてしまうので…。いつも気持ちに余裕を持って制作できたら良いですけど、去年は完全にマシーン化していましたね。どの仕事も一緒だと思いますけど、ペース配分はとても難しいですよね。そこは、1人でやっているデメリットかなと思います。仕事のオファーの断り方もいつも悩みます。とてもパワーが要ることだと思うんです。「いいですよー是非是非!」って受けるのはお互いに気持ち良く仕事ができますが、例えば、すごくお世話になっている方からのオファーでも、スケジュール的にどうしても受けられないシチュエーションの時は、自分の中でダメージを一番強く感じます。なんと言って断ったら良いのか、ずいぶん長く考えてしまうんですよね。理由がどうであれ、断られたほうは良い気持ちがしないというのはわかっているので。「なんだよ今まで色々と世話してやったのに…」とか思われてしまうんじゃないかとか…そんなことを考えていると、けっこう(心が)やられちゃうんですよね。もしマネージャーがいれば、この手のことはお任せできるとは思うんですけど、ギャラの交渉からスケジュール調整まで全て自分で決定するというスタイルは、メリット、デメリット含め、今の自分に合っているとは思っています。
僕はミーハーなので、売れているものが好きなんです。最近のテレビのサントラも音楽の流行に良い意味で節操ない部分があって、どんどんトレンドを取り入れてますからね。そういうミーハー感もテレビというメディアの特権だと思っています。テレビ離れと言われていますけど、東京から離れて地方に行くとテレビの力の大きさを感じます。
例えばドラマ自体の視聴率が高くても低くても、それがサントラ盤の売り上げとは必ずしもイコールではないですよね?映像のために作った音楽ではあるけど、サントラ盤として必ずリリースして欲しい。去年、あまり予算が大きくない作品でオファーを頂いた際も、ギャラやスケジュールよりもまず、サントラ盤をリリースすることが条件でした。もしリリース予定がないのであれば、自主制作するのでサントラ盤を出させてほしいともお伝えしましたね。僕にとって、作った音楽が世に出ないというのが最も悲しいことで、サントラのお仕事をする時の譲れない唯一の絶対条件は、CDだろうが配信だろうが音楽をリリースすることなんです。結局、その作品のサントラも配信で、無事リリースすることが出来ました。
a la i.という名義は僕がDJをする時にかけられるような、クラブ対応のダンスミュージックを作る際に使っています。a la i.のプロジェクトをスタートして9年間。この『Love Star』 で19作目になります。
ダンスミュージックのトレンドは1週間で変わっていくので、自分が古くならないため、トラックメイカーとしてのスキルを磨くというか、それを実験だけじゃなくて、ちゃんと作品としてリリースして、世間的な評価も得てやっていく場として、すごく大切にしています。自分のやりたいことを好き放題にできますからね。DJとしての自分のためという部分もあります。
僕が最近いちばんイヤだなと思うことは……もはや自分では音楽を作っていないのに、人のやっていることを批判するクリエイター。「EDMなんて音楽じゃない」、「ダブステなんてうるさいだけじゃん」とか。「そろそろ人を育てなくて良いの?Kenさんはまだ自分の音楽だけやっているの?」とか。そういうことを言いだしたらクリエイターとして終わりだと思うんです。否定するのであれば、まず自分で作ってリリースしてから言って欲しいと思うんです。a la i.のプロジェクトは、そういう自戒の念も込めてやっていて、もしカッコ悪いサウンドしか作れなくなったら、僕自身、音楽家としての終わりだと思っています。
嬉しいことに、先ほどお話したフジの松山監督や音響監督の泉さんもa la i.の楽曲を買ってくださっていて、メインテーマを作る際の参考曲として、この曲がすごく良いのでこんな感じで、と言ってくださることもあります。このお2人を始め、その他にも、このインタビューでお話した方々と出会えたことが、サントラ音楽のお仕事ではとても大きいですね。
他の作曲家さん達の話を聞くと、仕事を得るにはやっぱり事務所に入らないとね…という話を良く聞きます。最近、改めて、サントラの世界で継続して仕事をするってすごい大変なことだなと感じていますが、今この時代だからこそ、音楽制作もマネジメントも全て自分1人でやっている僕のようなスタイルは面白いし、やりがいがあると思ってます。自分が何に重きをおいてやるかも、全ては自分次第です。
趣味はお酒が好きなくらいで(笑)。僕は1度音楽から離れてしまうと戻ってこられないんですよ。切り替えが下手すぎるんです。過去に何度もあったんですけど、例えばお正月だからって1週間くらい音楽から離れると、億劫になってしまうんですよね。だから海外旅行に行かないし、ドライブもしないし…(笑)美術館や映画は観に行ったりしますけど、それがメインで大好き、というものは何も無いですね。ウチが大好きで出来れば外へ出たく無いので本当に音楽を作っているしか無いですね。羽生さんの大ファンで将棋も好きなんですけど、好き過ぎて羽生さんが負けた対局を見ると、制作のモチベーションが下がってしまうので、見ないようにしています(笑)。
音楽といつも接しているのにはもう1つ、理由があって…、2016年の1年間は、新たに音楽の仕事が実は1本もなかったんです。対外的には『スタミュ』など前年に音楽を作ったものが放送されていて、やっている感はあったんですけど、厳密に言えば、新規のオファーが全くなかった年なんです。その年は3月くらいまでに、気分転換でアートやスポーツ、映画などを今のうちに観ておこうと、行っていたんですけど、でも結局、そんなことをやっても、自分自身のアウトプットが無いと何もならないわけなんです。それ以降の残りの9ヶ月で気付いたのは、やっぱり僕は音楽を作るしか無いということ。メンタルも安定し、結局、年末までに100曲近く作ったんです。仕事がないから音楽を作らないというスタンスで音楽をやると、もう先が見える…。例えオファーがなくても音楽を作るべきだと思うようになり、修行僧のように(笑)、淡々とストイックに音楽を作り続けようと。月9が決まろうが、どんなオファーを頂こうが一喜一憂しない、やることは一緒というマインドにならないと、この先は無いよと痛感したんです。どこまでいっても自分が好きで作っているというスタンスでないとダメだなと。
自分の心の安心感のためにも、他に趣味をやるのではなく、音楽をいつも作り続けていたいと思いますね。そうやってストックをある程度作っておけば、さっきお話ししたような、仕事が途切れない年や、例え2作品同時にオファーが来ても対応出来るじゃないですか?
一言で言うと、自分に負けない、ということです。それに尽きると思いますね。
うまくやったつもりでも、自分はわかっているわけじゃないですか? それが絶対、どこかでボロが出ちゃうんですよね。ズルをしたり、パクっちゃったりとか。そういう弱い自分に負けないというのを、自戒をこめて。自分をごまかしたらそれまで。 どんな仕事にも共通していると思います。
音楽だけでは食べづらい世の中にはなってきていますけど、一方で、技術的に音楽を作りやすくなったり、アウトプットのチャンネルも増え、音楽家になるにしてもいろいろな方法からチョイスができる時代ですよね。僕たちの頃は、CDデビュー=メジャーデビューで、それができなければゼロだったのが、今はYouTube、ネット配信、SNSなどアマチュア、プロ関係なく発信することできるので、そういう面ではとても恵まれている時代だと思います。
【Ken Arai オフィシャルサイト】
https://www.kenarai.net
Ken Arai (a la i. / 18degrees.)
2003年Kaori Okanoとのユニットtransluvでデビュー。以降、西野カナ、KAT-TUN、野宮真貴、Lisa、Double、Ryohei、moumoon、リア・ディゾン、MAX、Olivia Ong、Cover Lover Project等、数々のプロデュース、プログラミング、アレンジ、REMIX、楽曲提供等で関わるトッププロデューサー。既に13枚のオリジナルアルバムと19枚のEPをリリースしている。
フジテレビ『東京リトル・ラブ』、『鍵のかかった部屋』、『LAST HOPE』、『失恋ショコラティエ』、『トレース ~科捜研の男~ 』、日本テレビ系『寄生獣-セイの格率-』、TOKYO MX『スタミュ』、日本テレビ『トドメの接吻』、Netflix 『宇宙を駆けるよだか』等、数々のサウンドトラックを担当。現在はNHK『ピングー in The City』、が好評OA中。
また自身主宰のレーベルAddicted Tokyoからリリースしているa la i.名義による作品は常にダンスミュージックチャートでトップ10入りを果たしている。10月にリリースした最新作『Love Star』に引き続き、20枚目となるNewシングルを2020年春リリース予定。
2016年には初の中国ワンマンツアーを行い、全公演ソールドアウトし成功を収めた。
DJはEDM/エレクトロ・ハウスが中心で、カッティングエッジでアグレッシブなMIXが特徴。
今年デビュー17年目を迎え、自身の作品制作と並行し、CM、サウンドトラックを手がけるなど多岐に渡るプロデュースワークでその才能を発揮している。
日本テレビ系ドラマ「トドメの接吻」
オリジナル・サウンドトラック
(発売日:2018年2月28日/バップ)
寄生獣 セイの格率
オリジナル・サウンドトラック
(発売日:2014年12月24日/バップ)