昭和12年(1937年)、兵庫県淡路島に生まれ、昭和34年明治大学文学部卒業後、広告代理店に勤務し、番組企画やCM制作等を手掛ける。その後、昭和40年フリーとなり放送作家を経て、作詞家、作家として本格的な文筆活動に入る。
かたや、これまで手掛けた作詞曲は5,000曲以上に及び、近頃、郵政省から発売された『20世紀の記念切手シリーズ』の中には、ピンク・レディーの『UFO』(作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一)が選ばれたほど、時代とブームを担った昭和の語り部でもある。
終戦を、瀬戸内海の淡路島で8歳の時迎えられた阿久悠先生にとって、戦後の民主主義は、”歌謡曲”と”映画”と”野球”の三色旗であったと定義づける。
近著の自伝的小説『ラヂオ』は、終戦直後、淡路島を舞台に主人公・合田走少年たちの日常をいきいきと描いた作品だが、先生いわく「僕の考え方とかタイプとか、ほぼあれに近い子供だった。あの主人公がやっている事は、僕自身がやっていた事ですから…」と熱っぽく語って下さいました。
では、実際に『ラヂオ』の主人公とも比較しながら、どの様な少年時代を過ごされていたのでしょうか。
「けっこうね、(ものごとの)優先順位をつけるのがうまい子供だったんですよ。色々面白いものがあるけど、その中で今やってみて面白い、どれが一番たのしいかな…なんて。だから、夏休みに少年クラブを一冊つくるとか、どういう訳か興味があって、その時、作家になろうとかいう思いでやっていた訳じゃないんですが…。当時はラジオというのが、(情報源として)唯一でしたね。新聞はペラ一枚なんですよ。いわゆる政治的、社会的な事件を載せる程度で…、そうすると、生々しい情報が伝えられるのはラジオ位なんです。特に僕は東京のことを考えていたので、東京を知るものはラジオしかない。特別な事を言ってくれなくても、標準語で喋ってくれるだけで、僕にとっては大変な情報源だった。子供の頃から、けっこうマネして東京弁を喋ってましたよ。(笑)」
先生が初めて記憶された歌謡曲は、意外にも高峰三枝子さんが歌った『湖畔の宿』だったとか。戦争中、12歳年上で海軍に志願していったお兄さんが買って来たレコードを、一人、押入れの中で布団をかぶり聴いていたという、そうした時代背景に育った阿久先生ですが…、子供心に戦争が終ったという実感をどの様に感じられましたか?
「戦争が終ったということ、平和になったということを何で意識したかっていうと…家の中で、大きな音でレコードをかけても近所から悪く思われないとか。あるいは、大きな声で歌を唄いながら歩いていても大丈夫…大人からブン殴られないとかね。(笑) 子供ですから、特にそういう事で平和になったんだなあと感じましたね。それ以外に戦争と平和の差といえば、ラジオから歌が流れてくるとかね、レビューの一座が町にやって来るのが平和の象徴だったんです。」
小説『ラヂオ』を書くにあたり「あの時代設定は、昭和22年という年でなければ小説にならなかった」と明言する阿久先生。例えば昭和22年は、教育基本法の改正、男女共学制度の開始など、色々と社会的証拠がそろっていたと言うが、何より画期的なことは『向う三軒両隣り』『鐘の鳴る丘』など連続ラジオドラマが次々にスタートしたこと。 作品に敢えてその時代を選ばれた理由とは?
「21年とも23年とも違う…あの(昭和22年の)時代設定でなければ成立しなかったでしょうね。たとえば、NHKの番組ひとつを例にとっても、21年ですとまだレギュラーや連続ものがなくて”たずね人”とか、”復員便り”や”配給便り”とかね。(笑) ところが12年の中頃から、やっとタイムテーブルがきちっとしてきて連続ドラマがたくさん始まる。今度は23年になると、社会が少しだけ落ち着いてくるので子供の話が成り立たなくなってくるんです…逆に大人が主役になってきますから。22年というのは、まだ大人がアタフタしていて、子供の方が楽しかった時代なんですよ。」
そして、初めて作家への夢を抱かれたのもその頃だったのでしょうか。
「それが変なんですよ。作家に憧れたんじゃなくて、番組が始まる時、”何々作”という脚本家の名前がアナウンスされるんですけど、その響きがえらくカッコいいと思えたんです。(笑) たとえば『向う三軒両隣り』の場合は、当時、4人の作家の合作なんです。映画ではベテランの八住利雄さんに伊馬春部さんと、山本嘉次郎さん、北條誠さんで始まるんですが、”八住利雄作”とか、”伊馬春部作”とかね…自分も将来、あんな風に呼ばれてみたいなあなんて憧れたんです。ああいうものを書きたいと言うんじゃなくて、ただ単に”何々作”と呼ばれたら、実にカッコいいなという思いです。」
中学までは、島の映画館のない町などにやって来る巡回映画(学校の校庭などで上映する移動映画のこと)をかかさず観に行ったという阿久先生。次に、戦後もうひとつの民主主義と感じられた”映画”についての思い出を語って頂きました。
「まあ、高校の3年間は映画を観に行っていた様なもんですね。僕は学校が終わってから、バスで淡路島の反対側へ帰らないといけないんで、授業を最後まで出てたら間に合わないんです…そこで午後の授業をカットしなければならない。そういった優先順位をつけるのが得意だったんです。(笑) “ローマの休日”とか”グレンミラー物語”とか…もちろん、いい映画を観たいという気持もあったんですけど、やはり何より(映画で)東京の風景が見たかった。だからたいした事はない映画でも、東京の景色というか、東京の生活のノウハウというか……、ホテルやレストランなんて行ったことない訳ですから、(食事のシーンで)フォークやナイフがずらりと並んでるなんていうのに憧れましたね。」
それほど憧れていた東京を、初めて体験されたのは修学旅行の時だったそうですね。
(その時は)仲間うちで、自由時間にどこへ行こうかといった時の情報は、僕がすべて精通していました。東京弁の話もそうですけど…大学に入るため東京へ出て来て、まず東京駅に着いた時、ウロウロしないでさっと目的の乗り換えホームへ行ける雰囲気を、自分に持たせたいという気持ちが強かった。バカな年頃ですよね。(笑)
でもバカな事だけど”東京”というのがやっぱりある種の値打ちがあった。
値打ちがあると思いたかった。東京というのは、普通の都市とは違うんだという意識が非常に強いもんだから、夏休みに実家へ帰って出て来る時も、熱海を過ぎて、小田原あたりから『ようし!東京の顔を作らなきゃ』と、そんなことを思ってましたよ。(笑)」
ところで、お父様は警察官だったそうですが、先生が文学部に進学されたのは、やはり何か創作的なものに興味をお持ちだったからでしょうか。
「親父は、東京大学の法学部へでも行ってくれればよいと思っていたでしょうね。小学生の頃は、成績よかったですから。親父の価値観からすれば、成績のいい息子が、東大の法学部へ行って警察官僚にでもなってくれれば最高だな…と、きっと頭の中では思っていたと思うんですよ。ところが息子は文学部ですから。……親父には感謝してます。もちろん(僕の方も)大学に入って、日本文学をしっかり勉強したいなんて思っていた訳じゃない。物を書きたいとか、考えたいとかいう環境の中にいられるだろうという思いのほうが強かった。けっこう皆んな勉強しなくってね。(笑) ついに4年間、大学でも映画だけを観て過してしまった様なもんですよ。」
当時は広告代理店に勤めるかたわら、内緒で放送作家の仕事もされていたという阿久先生。その上、注目すべきは、日本テレビで昭和40年にスタートした音楽番組『世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド』の企画も担当、いわばGSブームの仕掛人の一人でもあったわけです。
「(当時は)日本テレビに勤務しているんじゃないかと思うほど、一番多い時には(レギュラー番組を)何本持っていたんだろう…6~7本やっていましたからね。すべて日本テレビのおかげですよ。(笑) グループサウンズ (GS)の最初の番組というのは、日本テレビで一所懸命企画を考えていたんですが、結構あの頃、日テレも慎重でね。なかなかOKが出なくて、モタモタしている間にフジ(テレビ)にさっと先にやられちゃったけど、明らかに僕らの方が先に準備していたんです。及田さん(当時の担当ディレクター及田光則氏)のプロデュースで、スポンサーにコカ・コーラがついているGSのコンテスト番組で優勝チームを、ビートルズの出地のリバプールでレコーディングさせるなんていうのがご褒美だったわけです。その優勝者が”サベージ”で、サベージのメンバーの一人がいま役者の寺尾君(寺尾聡氏)ですから。僕が残念に思っているのは、その時書いた企画書がいま手に入らないことなんですよ。”GS”とは何だ?”エレキギター”って何だ?という事から説明しないとダメな時代だったから、絵入りのギターカタログ付きみたいなユニークな企画書を作った。あれは歴史に残る企画書だったと思うんだけどね…?(笑)」
ところで、先生の作詞家としての第一号作品はザ・モップスの『朝まで待てない』とお聞きしていますが、作詞を始められたきっかけもその頃だったんでしょうか。
「レコードのA面になったものとしては、モップスが第1号で、僕のディスコグラフィーもモップスから始まっているんですけど…。実はその前にも、詞らしきものは、番組の中で一杯書いているんです。毎週のようにオリジナル曲を、なんていってスパイダースと共にやっていましたからね。でもそれらは全部、あのスパイダースが出すレコードのB面にくっつけられちゃった。(笑) そもそも日本のGSというのは、何故かベンチャーズとか、アストロノーツとか演奏だけのものを真似るというのがはやっていた。歌うのは野暮ったいという考え方で、(番組に)来たやつ来たやつが歌わない。それじゃあというんで応募者が歌わないんだったら、歌をつくらなけりゃしょうがないということで、スパイダースと作り始めた…。僕の作詞のきっかけは、いわば必要に迫られて出来たようなもんですよ。(笑)」
そして昭和41年(1966年)6月29日、ザ・ビートルズが来日。その時は、どうしていらしたのでしょう…。
「ちょうど日テレが特番を作るというから、これはてっきりやれると思ったら、僕と及田さんははずされちゃった。(笑) その時”ビートルズが来る日に、こんな所で酒を飲んでいるようじゃあダメだ”とつくづく思いましたよ…気持ちとしては、ビートルズが来日したあの日『あなたはどこにいましたか?』と聞かれた時、『武道館にいました』とか『ヒルトンホテルにはりついていました』とか、『羽田に待っていました』とか、そう答えられる人は、それ以後、音楽関係の仕事につけるけど…いやぁ(特番)はずされて、銀座カイワイで飲んでましたと言うんじゃあ、やっぱり音楽の中に残れないんじゃないかと、そんな思い方をしていましたね。」
歌が人の心や記憶に残るのは、リズムやメロディーではなく”詞”なんです。でも今を振り返った時、人々が一様に思い出せる歌があるかどうか?いささか疑問です――とおっしゃる阿久先生。続いては、先生の”言葉”、”詞”に対する思い入れを語って下さいました。
「僕なんかソングというものを愛してる訳で、ソングは非常に高度なミュージックと合体すれば、一番いいなあと思う訳です。それが演歌になるべきだなんて、僕は全然思っていないんです。ただ今の時代の中で”言葉”で一回立ち止まってみるという種類の歌もなければならない。すべてが、メロディー先行のかたちで出来ていくというのは稀有な事だと思いますよ…いまの日本では、それが普通のように思われてますが。(歌というのは)本来、”詞”が作りだした一つのイメージを、さらにどうふくらませるか?もっと効果的に伝えるにはどんなメロディーを作るのか?作曲家が、色々と工夫してくれる最初のものが”詞”であった訳です。もちろん、時には音やメロディーが先行することは、必ずしもバツではないんです。しかし、歌は、やっぱり世の中流れながら、その時代の中でしか似合わない言葉を自然に語っているもんだと思うんですよ。たとえば…ああいう考え方、ああいう愛情のとらえ方、別れ方の一つの美意識ですとか、そういったものは60年代、70年代、80年代、90年代、みんな違う言葉によって証明されてきた訳ですから。その部分が欠落してしまうと、その時その時の生理的な快感だけで終ってしまって、後で思い出す時に困ると思うんです。歌を”詞”で思い出すのが普通なら、”詞”を思い出さないものは、共通の話題としてどうやるんだろうなと…いきなりメロディーを口ずさむんだろうかって感じしますけどね。」
ちなみに、昭和を代表する歌手として美空ひばりさんがいらっしゃいましたが、先生は同世代の人間として、どの様な印象をお持ちでした。
「作詞を始めた時に、一つのテーマとして”美空ひばり”で完成している種類の歌でないものを探そうと言うのが、僕の作詞の主旨でした。それをやった為に、僕はたぶん評価されたと思うんです。裏を読んでみると、実は”ひばり”から逃げていたんではないか、とも思いましたが…いくら逃げようとしたって、到底逃げられないんですよ。(笑) 池文さん(元NTVの音楽プロデューサー、池田文雄氏)に、よく『ひばりの特番やるから、手伝って』と誘われた時も、何とか言って逃げましたね。嫌いという事ではなくて、むしろ好きだと言っている人よりもっと意識は強かった。あちら(ひばりさんサイド)にしてみれば、いわれもない過剰反応だったでしょうね。(笑)」
歌謡曲とは、その時代、時代の中に存在する共通語である。また一方で、平成の世、”歌謡曲”はすでになくなってしまったとも言われている。そうした現在の音楽状況を、はたして先生はどの様に受けとめていらっしゃるのでしょうか。
「今の状況は、これでいいと思うんです。ただ一つね…問題はさっき言った(中心の)ソングの方が欠落してますから、まわりが悪いんじゃなくて、これ(ソング)がなくなってしまった事が悪いんです。だから今のアイドルの歌でも、ロック系の歌でも、”あんなもの”という言い方はしたくないんです。これはあっていいんです。僕らが出て来た時も”あんなもの”と言われたんですから…かつての流行歌から比べるとね、”あんなもの”だった訳です。それはいつの時代でも、出て来た時に、ちょっと困ったなあと思わせる位のものが出ないと、むしろ今は困ったなと思わせるものが逆にない。もっと困らせていいんじゃないか。だけどその為にはね、スタンダードであるべきものがしっかりしてないと、やっぱり駄目な訳です。それを、僕は”歌謡曲”という言い方をしてるんです。流行歌とは違う、まあ僕流の言い方をしてみれば、”ポップスの音に、日本語の価値をあたえる”のが歌謡曲だと思っています。」
平成という時代になって変わってきたもの…それはいったい何だと思われるでしょうか。
「成行きからみると、昭和の終わりから平成に変わり、”言葉”というものが、何か失速したなって感じますね。僕ら昭和という時代で、たとえば昭和22年の後にカッコして、1947年という西暦を書きますよね。平成になって、それが逆にきてますよね。西暦が先にきている…これは、コンピューターだと思うんです。どの書類を打つんでも、西暦年号で打っていくという事が、生活に必要とされている。ところがわざわざ換算して平成の年号で言わなければならない場面が、逆にないですよね。無論、それは言葉にも影響あるだろうし、たとえば生で語る言葉というものが少なくなってきている。電話を通す、あるいはコンピューターディスプレイの中に文字を打ち込むという形になってきますと、これは会話体として違うだろう。そこで選ぶ言葉は違うだろうという風にね。そこへもってきて、いま大流行してる歌の中に、この言葉を使ってみたいと思わせるものがなくなってきているというのが現実です。たしかにそういう意味で、今の人達は、言葉をうまく使えない様な状況というのを感じますよね。」
いまやホームぺージも開設されているそうですが(http://www.aqqq.co.jp/)、毎週流している原稿は、パソコン時代では珍しい”たて書き”とか。このあたりも、先生の日本語に対するこだわりのひとつなのでしょうか。
「あれ、大変なんですよ。毎週火曜日に内容を変えるため、日曜に原稿を書いてるんです。勿論、僕自身はパソコンはやらないけど、何故ホームページを持ったかと言えば、コンピューターもインターネットも、僕は拒否はしません。ただし、人間の運命を決める様なことは、コンピューターに言わないでくれと…(笑) 使える人はこっちへ来なさい、使えない人は、ここで帰りなさいみたいなこと、機械に言ってもらっては困るんです。だから、多少不都合はあるでしょうけど、私は無理してでも”たて書き”にする事をコンピューターに言い聞かせてる。コンピューターを間に置いて、仕事があるとか、ないとか、将来があるとか、ないとか――とんでもない話だと思う。(笑) それ(コンピューター操作)は、ひとつの技としてないよりあった方がいいとか、必要だから使うというのはいいんですが、人の値打ちを決めることを、コンピューター側から言われたくないな……。」
とおっしゃった最後のコメントに、アナログ人間的な先生のやさしさを垣間見たような気がいたしました。
昭和12年(1937年)2月7日、兵庫県淡路島生まれ。作詞家・作家。昭和34年、明治大学文学部卒業後、広告代理店宣弘社に勤務し、番組企画やCM制作等を手掛ける。昭和40年フリーとなり、本格的な文筆活動に入る。
尾崎紀世彦「また逢う日まで」(昭和46年・第13回日本レコード大賞受賞)、沢田研二「勝手にしやがれ」(昭和52年・第19回日本レコード大賞・第10回日本作詩大賞受賞)、ピンクレディー「UFO」(昭和53年・第20回日本レコード大賞受賞)などこれまでに作詞を手掛けた曲は5千曲以上に及ぶヒットメーカー。また、企画・審査員として携わったテレビ番組「スター誕生」からは、森昌子・桜田淳子・山口百恵を初め、岩崎宏美・小泉今日子・中森明菜ら数多くのスターを世に送り出した。
また、映画化された「瀬戸内少年野球団」に代表される著作も多く、「家族の神話」「家族元年」といった日本の家庭を題材とした小説や近年は大人の恋愛小説「絹婚式」「あこがれ」を上梓。その後も空想野球小説「球心蔵」(河出書房新社)などを発表している。 平成9年に刊行された短編小説「恋文」はその後ラジオドラマ化され、さらには企画CD(全作詞:阿久悠、歌:薬師丸ひろ子)としても発表された。 同年作家生活30周年を迎え、14枚組CD全集「移りゆく時代、唇に詩」の発売、新作の歌詞100篇を収録した「書き下ろし歌謡曲」(岩波新書)の刊行など、精力的に活動している。
平成9年、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに平成11年春、紫綬褒章を受章。
なお、近刊としてエッセイでは平成12年5月20日刊行の「文楽(ぶんがく)~歌謡曲春夏秋冬」(河出書房新社)。小説は、7月25日刊行の「ラヂオ」(NHK出版)。
平成12年10月、掌編小説集「詩小説」にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。