80年代序盤に作詞家としてデビューし、現在もなお、新たな作品を作り続けている作詞家の松井五郎さん。ジャンルやアーティストも幅広く、また携わったアーティストとの繋がりも深い。
この作家インタビューでは、デビューのきっかけ、アーティストを厳選したさまざまなエピソード、日本テレビ音楽の管理楽曲ではなくても伺ってみたいヒット曲の秘話を語って頂きました。 また、作詞家を志望する人も必読のアドバイスも伺っています。
僕の場合は、作詞家になったというわけではなくて、作詞家にさせてもらったんだと思います。
70年代にフォークソングの洗礼を受けて、自分で詞を書いて、ギターを弾いて歌うことを始めました。コンテストに応募もしていたのですが、僕の実力では弾き語りだと難しいかなと思ってバンドを組んだんです。そして、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(以下、ポプコン)に出場するようになりました。
ポプコンにエントリーするようになって何度目かに、後に杉山清貴&オメガトライブになるきゅうてぃぱんちょすや、根本要君のスターダスト・レビューの前進のバンド、そして僕らのバンドが、つま恋の本選会に行かせてもらったんです。その大会ではクリスタルキングの「大都会」がグランプリを獲って、根本君たちのバンドは優秀曲賞だったんですけど、杉山君たちと僕らは惨敗して帰ってきました。
結局、僕らのバンドは解散することになって、これからどうしようかと途方に暮れていたんです。そんな時、ヴォーカリストとしての杉山君に憧れていたので、杉山君に「詞を書かせてくれないか?」と声をかけさせてもらったんです。そして、杉山君と一緒に作った曲「乗り遅れた747」で、またポプコンつま恋の本選会に行くことになりました。結果的にその年も選には漏れてしまいましたが、たまたま僕の詞を見てくれていたヤマハの山里さんというプロデューサーがチャゲ&飛鳥の2作目のアルバムの制作に入っていて、「チャゲと組んで詞を書いてみないか?」と声をかけてくれたんです。それが、作詞家としての僕のスタートになりました。本当に奇跡のような出来事でした。
作詞家としてのデビューになったセカンドアルバムの『熱風』(1981)では、タイトル・チューンである「熱風」が飛鳥涼の曲で、詞を書かせてもらいましたが、殆どの曲がチャゲとのコンビでした。アルバムの後にリリースされた「万里の河」の次のシングル「放浪人(TABIBITO)」がチャゲの作曲で、これがシングルの作詞では初めての曲です。作詞家としてはラッキーなスタートでした。その3年後にチャゲと共作で詞を書いた石川優子とチャゲの「ふたりの愛ランド」(1984)が大ヒットして、それと同じ年に日本語詞を書いたMIEさん(元ピンク・レディー)の「NEVER」もあって、この2曲でオリコンのチャートに初めて僕の名前が載ったんです。
安全地帯とは最初事務所を通して依頼がありました。なぜ僕だったかということについては、だいぶ後になってから聞いた話があります。1983年に小室哲哉君と木根尚登君がプロデュースしたSERIKA with DOGというバンドのアルバム『CAUTION』に詞を書いたんです。それを安全地帯のディレクターが見て面白いと思ってくれたのと、玉置浩二と年齢が近いということもあって僕に、ということになったんだそうです。
最初に書いたのが「マスカレード」という曲だったんですが、それを書く時に頂いたカセットテープにセカンド・アルバム『安全地帯 II』(1984)のデモ音源が全部入っていて、締め切りまで1週間くらい頂いて、その1週間で、頼まれたわけでもないのに、全曲に歌詞を書いちゃったんです(笑)。浩二の曲と声が衝撃的で、感じるものがあって、使ってもらえなくても良いと思いながら全て提出しました。そうしたら気に入って頂いて、セカンド・アルバムは、ヒット曲の「ワインレッドの心」と「真夜中すぎの恋」以外の全て採用してもらえました。
安全地帯のファースト・アルバムはウェスト・コーストっぽい感じでしたが、「ワインレッドの心」が大ヒットした後は、そのイメージを広げていきたいというのがあったと思います。セカンド・アルバムは、玉置浩二のキャラクターを生身の男性というより抽象的な、存在するのかしないのかわからないような妖しげな印象にデフォルメしていたんですけど、TVなどへの出演が増えて、玉置浩二の存在感が認知されてきた頃のサード・アルバム『安全地帯 III~抱きしめたい』では、(歌詞の中の)女性との距離感、聴いてくださる方との距離感をリアルな存在に作っていったと思います。
歌詞の人称を「きみ」ではなく「あなた」にして、わかりやすく言うと女性をもてなすような位置関係、恋愛の距離感を意識しながら書いていました。
キティ時代の最後のアルバム『安全地帯VIII~太陽』から10年ほど間が空いて、「出逢い」が収録される『安全地帯IX』(2002)の制作が軽井沢のスタジオで行われていて、そこで久しぶりに、初期の頃のようにして一緒に作っていった中の1曲です。
玉置浩二が作る曲はメロディーというか音数が少ないんですよね。この「出逢い」という曲も言葉数が少ないんです。逆に言葉数が少ないのに玉置の曲は奥行きがあって、「出逢い」は作曲家としての彼のポテンシャルに心を動かされた記憶があります。
「玉置浩二のソロは、安全地帯とどう差別化していくか、違いをどのように出していこうかということを考えていました。
以前、安全地帯と並行していた頃の最初のソロアルバム『All I Do』(1987)をロサンゼルスとロンドンで録音して、それは外国のアーティストがアレンジしていたこともあって、音楽的には安全地帯と違っていたと思うんですけど、彼の声の存在感はすごく大きいから、彼が歌えば安全地帯なのか玉置浩二なのかどちらでも良い感じになってしまうと思うんです。彼が一人で歌ってるという意味をどうやって出していったら良いのかな?というのを、ソロでは考えていました。
実は、安全地帯の頃は浩二とは詞の話を殆どしたことがないんです。プロデューサーの金子章平さんと星勝さん、そしてエグゼクティヴ・プロデューサーの多賀英典さんと一緒に世界観を作っていったようなところがありました。浩二は、安全地帯の歌詞に関して意見を言うようなことはないと、当時のインタビューにあったと記憶してます。でも、自分にフィットしないものは歌わないんですけど。
安全地帯とソロとの大きな違いは、すごくシンプルなんですが、浩二と詞について話をするようになったかどうかということかもしれません。
「プレゼント」は、ドラマのストーリーの流れを事前に聞いていました。でも、ドラマのタイアップの場合、歌の中に(ドラマに関する)ドラマの説明になるような直接的なことは書かないようにしています。
サビの「この世界には 愛があふれてる」という部分は、新幹線に乗った瞬間に思いついたのをすごく覚えています。(言葉が)降りてくるというのは、ああいうことかもしれません。言葉数とメロディーの音数が、瞬間的にうまく一致してできるというのはあまりないことなので。
なぜあの時だったのかはわかりませんが(笑)
HOUND DOGで最初に書いたのはアルバム『SPIRITS』(1985)の中の「Magic」「ラストシーン」「Long‐Good Bye」でした。この頃はすでにBOØWYや吉川晃司君などの楽曲も書いていましたが、大友康平さんは、僕が安全地帯のメンバーだと思っていたんです。そのせいでソニーのロビーで初めて大友さんにご挨拶した時に、少し冷たかった(笑)。この出来事はその後、笑い話になるんですけど、あの頃は、バンドの外部の人が詞を書くとか、職業作家が詞を書くということは、魂を売ったみたいなことになる時代だったんです。そこでまして他のバンドである安全地帯の松井五郎が詞を書くというのは、大友さんにとっては許せないことだったと思うんです。その誤解はすぐに解けて、それ以降は大友さんとの共作もさせて頂いて、たくさん書きました。
大友さんとの共作はいろんなケースがあって、例えば「BRIDGE~あの橋をわたるとき~」(1992)は、二人が別々に書いたものを合わせていたと思います。
「大友さんが書いたものに僕が手を加えていく曲もあったり、逆の場合もあったり、いろいろな書き方をしています。HOUND DOGの歌詞は、バンドの中で大友さんの存在が中心にあるので、大友さんが何を歌うか?というのをテーマに考えないといけないと思っていました。僕もバンドの一員のような形になって、できた作品がちゃんとHOUND DOGの曲になっていれば、それが100点満点なのであって、歌詞が共作の場合も、作家としてどちらがたくさん(のパート)を書いたということは意識したことはないです。例え自分が作った部分が1行だけだったとしても共作にして頂ければ嬉しいし、その逆があっても良いし、一つの作品を一心同体で臨んでましたね。
「AMBITIOUS」は、リリースから30年以上経った今になっても自分の中で古くなっていない曲の一つです。大友さんにとってもそうだと思うんですけど、30代、40代、50代の「AMBITIOUS」ってあると思うんです。そういう意味でも息が長い楽曲だと思います。
「ONLY LOVE」も「AMBITIOUS」も、スポーツやドキュメンタリーのタイアップであっても、その内容を具体的に説明するような歌詞ではないですよね。タイアップというのは大事な要素なんですけど、それに縛られると、コマーシャルソングみたいになってしまうんです。その時期が終わると忘れ去られる歌にはしないで、普遍的なものにしようというのが、当時のスタッフからも話に出ていました。「ONLY LOVE」もそのような方向で話が進んでいったと思います。そうでなければ、スポーツとかけ離れたラブソングを使って頂けることにはならない。
氷室京介君について、この「SQUALL」以前に遡ると、BOØWYを解散した後に出したファースト・アルバムの『FLOWERS for ALGERNON』で2曲書かせて頂いて、ソロとしてはそこからの付き合いですね。
当時、意識していたのは、氷室京介君のカリスマ的な側面です。例えば、先行シングルの「SUMMER GAME」以外を全曲書かせて頂いたセカンド・アルバムの『NEO FASCIO』。これはアンチテーゼとして氷室君を独裁国家の元首、カリスマの独裁者といったイメージで作りました。まだ表現の幅、自由度があった時代です。
ただ、その時に氷室君が話していたのは、非現実的になりすぎたくないということだったんです。ポップミュージックであることはすごく大事で、あまりにも抽象的だったり、非現実的だったり、シュールになりすぎたくないって言っていましたね。だから、『NEO FASCIO』のようなものでさえ、ダブルミーニングになるように、ラブソングに落とし込んでいくということは常に考えていて、どの曲の中にもそういう仕掛けは必ず作っていましたね。
「SQUALL」という曲は、『NEO FASCIO』がカリスマ氷室京介のイメージがピークだったとすると、人間・氷室京介に戻っていく曲線の中で生まれてきた楽曲だったと思います。
工藤静香さんの楽曲制作は、当時ポニーキャニオンの渡辺有三さんがプロデュースされていました。有三さんの発注の仕方はわかりやすくて、これは書かないでとダメなことだけ仰って、後は好きに書いてくださいという依頼で、すごく自由にさせて頂きました。作詞家として育てて頂いたプロデューサーの一人だと思います。
後藤次利さんがずっと作曲とアレンジをやっていたので、その部分の安定感みたいなものがあって、その上でシングルの作詞に中島みゆきさんや僕がいて、すごく恵まれた中で仕事ができたと思います。中島みゆきさんが「MUGO・ん…色っぽい」(1988)というすごくポップな曲を書かれた次に、僕がバラードの「恋一夜」(1988)を書かせてもらったり、その逆もあったりして、なにを望まれているかがわかりやすかったですね。
自分が書かない曲でもTVで歌う姿を見て、こういう曲の時は世の中の人はこう見るんだなとか、俯瞰して見て、次に自分が書く時はこうしようなどと思っていました。実際に次の曲のメロディーが来てから歌詞は考えるんですけど、アーティスト「工藤静香」が育っていく過程で、どんな作品があればいいかを自分なりに考えていましたね。
「声を聴かせて」は、僕の記憶だと、工藤静香さんがセルフプロデュースをしていく時期に入っていた頃だと思います。制作サイドがどのように進行していたのかはわからないんですけど、最初からこの曲をシングルにしようという話ではなかったと思います。僕もシングルのつもりで書いてはなかったんです。曲が出来上がった時に、工藤さんが一番歌いたい曲だと言っていた記憶があります。
「声を聴かせて」はゴスペルの匂いも入ったバラードで、シングル曲というよりも、どちらかと言えばアルバムタイプの曲ではあるんです。でも、工藤静香さんは「抱いてくれたらいいのに」(1988)のようなロッカバラードが似合うし、こういう歌が表現者として上手だと思うし、あれから歳を重ねたあの時に、バラードを歌いたいという工藤さんの気持ちが、「声を聴かせて」をシングルにさせたというのは、すごく必然的だったなと思います。あの曲にとっては、ドラマ主題歌のタイアップも決まって、シングルにしてもらえてよかったと思います。
中村雅俊さんは僕にとって「答え合わせ」なんです。僕が15歳の時に「ふれあい」でデビューされて、青春ドラマをかじりつくように観ていて、『俺たちの旅』にアイビージャケットにゲタの格好で出てくれば、僕もマネをして街を歩いたりとか、僕は一人っ子だったんですが、自分にとって遠い兄貴みたいな存在でしたから。その前には『傷だらけの天使』の萩原健一さんに憧れていたわけです。ただ、BIGIの服は買えなかったんですよね。それが、雅俊さんの『俺たちの旅』ですごく近い存在感を示してくれた自分の青春のスターというか。もちろん当時は、自分がこんな仕事をするとは思っていなかったですが、それが巡り巡って雅俊さんとお会いすることができて、『OU Vas-tu?(ウ・ヴァ・テュ?)』(1985)というアルバムで初めて詞を書かせて頂くようになったんです。
今まで書いてきたどの曲も『俺たちの旅』で自分が感じたり、勉強させてもらったことへの「答え合わせ」なんです。ドラマを通して雅俊さんに教えてもらったことを、どうやって詞の形として落とし込んでいくかと考えて、それを聴いてくれる人たちが、当時のことを思い出すもよし、若い人が勇気づけられて、あの頃の僕と同じ気持ちになってくれる人がいたら良いなと思ったりします。
僕らの先輩が石原裕次郎さんに憧れたのと同じように、自分の世代にとっては、松田優作さん、萩原健一さん、中村雅俊さんは、憧れの存在ですから。
作詞家と呼ばれるようになって幸せだなって思うのは、自分が子供の頃に憧れていたスターとか、ウルトラマンもですけど、物心ついた時からTVの向こう側にあった世界に旅ができているということかな。出会って一緒に仕事をさせて頂ける、その幸福感だけに満ちている人生といっても良いかもしれないです。
もちろんチームでやっていく仕事ですから、売れる方が良くて、数字も無視できないですけど、その一方で僕にとっては夢のような出来事がずっと続いているわけです。加山雄三さんに詞を書けたり、郷ひろみさん、野口五郎さん、西城秀樹さんの御三家全員と仕事ができたり、花の中三トリオならば、森昌子さんには詞を書けたけど、山口百恵さん、桜田淳子さんは間に合わなかったなとか、青春グラフィティをずっと辿ってきた感じですね。
時代によって曲名が長いタイトルが流行ったり、逆に短いタイトルが流行ったりすることがありますが、この「OH!!」はジャケットを考えた時のグラフィック的にも面白いかなと思ってつけたタイトル曲です。少年隊の歌って踊るスタイルは、ジャニーズの王道でしたね。少年隊のシングルは、「OH!!」の他に「情熱の一夜」(1999)という2作のシングルを書かせて頂きましたが、ジャニーズのアーティストに書いた曲全体を通しても好きな曲です。
ジャニーズ系では光GENJIに書いた「勇気100%」(1993/アニメ『忍たま乱太郎』主題歌)もありますが、新しい世代のジャニーズグループによって、こんなに長く歌い継がれる曲になるとは思ってませんでした。東日本大震災があった時に、YouTubeなどで子供たちが歌っている映像がたくさん出ているのを見た時に、作ってから20年近く経って、この曲の役割というか、運命がわかったという感じがしました。
80年代から90年代序盤は、短いローテーションでシングルが発売されていて、その中で発売からすぐ良い結果が出なければ、仕事としては負けなんですよね。もちろん力のあるアーティストは、チャートで高いランキングになりますけど。でも、またすぐ新しいシングル曲が出るので、極端なことを言えば前の曲はどんどん忘れ去られていく運命だったりして、そういう中で自分は歌の命とどう向き合っていけば良いのかというのを再認識させてくれた曲ですね。「勇気100%」というのは、曲名の通り、自分に勇気を与えてくれた曲だと思います。
この曲の大ヒットは、運としか言いようがないです(笑)。自分が書いたものが手を離れていってしまうと、その後で作家は大したことが出来なくて、申し訳ないと思っているんです。2007年にビリー・バンバンのシングルとして書いた時も、「いいちこ」のCMに使われたんですが、ヒットまでには至らなかった。それから2年後に坂本冬美さんのカバーがヒットしたという数奇な運命をたどった曲です。
坂本冬美さんのシングルを制作している時に、たまたま「いいちこ」のCMソングの話があったらしいんです。女性が飲む焼酎ということで、女性が歌うのが良いんじゃなかという企画だったんです。そのシングルのカップリングが空いていたので、そこに入れるために「また君に恋してる」をレコーディングして、再びCMソングとして使われたんです。でも、当然、A面曲をプロモーションしていたでしょうから、当初は「また君に恋してる」をそんなに歌う機会はなかったと思うんですね。CMが話題になって、当時は着メロブームだったので、そちらが300万ダウンロードになったと思います。
この体験があって、作詞家としては、作品を書いて、残していかないといけないって思いました。最初のアーティストに書いたものが、何年か後に別のアーティストによって新たな命を持つことになっていくという……。あきらめないというか、ひょっとしたら自分が死んだ後にヒットする曲があるかもしれない。その曲がどういう価値を持つかということや、どんな成果を残すかというのは、もしかしたら自分が生きている間にはわからないかもしれない。夢を見させてもらえる経験を「また君に恋してる」でさせてもらえたと思います。
自分がプロデュースをするようになって、過去に自分が書いた詞でヒットに至らなかった、あるいはアルバムの中の1曲だったような詞でも、その曲ができた時には生まれていなかったような人に歌ってもらえたりするのも良いと考えて、自分で探してみたりもしています。
趣味といえば詞を書くことも、仕事と趣味の境目がないんですよね。何かを具現化するのが趣味みたいなものです。写真を撮ったり、絵を描いたり、歌詞じゃない言葉を書いたりしていて、その延長みたいなものですが、砂時計を作ってたんです。作るのは職人の方に作ってもらうんですけど、例えば片方に骸骨が入っていて、もう片方に胎児が入っていて、それで所謂エロスとタナトスの時間が流れていくという作品とか。
砂時計を作っていくうちにたまってきて、それをデザイナーをやっている人に話したら、個展でも開いたらどうかと言ってくれて、今年の1月に青山のギャラリーでやるはずだったんです、でも、コロナで延期になって、5月にずらしてもさらに延期になってしまったんです。 たぶん来年2022年の春頃になるんじゃないかと思います。
打ち込みで音楽を作ったり、映像の編集もやってます。PVやティザー映像を作ったりとかもしてますね。今度は配信で流せる短編映像を作りたいなと考えて、スクリプトは書いているんです。
スピード感ってすごく大事だと思っていて、自分の中の熱量が高まってるうちに形にしていきたいんです。自分が思っていることをすぐにやりたい。仕事として考える事も必要ですが、頭の中にあるものを、この世の中で形にして残す。そこから、それをどうするか考えていってもいいと考えています。
詞も曲もそうだし、音楽も映像もどんどん日々作っていて、そのためにYouTubeは便利なツールだし、Twitterもそうだし。例えば、グラスに水を注いでいくと溢れる。溢れると不思議と気づいてくれる人が現れてくれるんです。溢れたらまた次の器に入れていけば良いみたいな、その作業の連続なんです。これを満たすにはどんな器を用意するかではなくて、とにかく注ぎ続ける毎日。全てが趣味といえば趣味ですし、全てが仕事のようなものだといえば仕事ですね。
特にこのコロナ禍の世の中になると、自分の命も明日どうなるかわからない、残り時間がどのくらいあるかわからない状況の中で、自分がどれだけ何ができるかということを皆さん考えていると思うんです。
依頼があって何かやることに慣れすぎてしまうと、暇になったとか仕事が無いと思うことが多かったかもしれませんが、実は、こんな時こそ、ほんとうにやるべき事、或いはしたいことがなにかを確かめる良いチャンスのような気がしました。
アーティストは特に歌う場所を奪われた苦しさを感じただろうし、僕らもせっかく作ったものが聞いてもらえないような状況というのがあって、でも考えてみれば、お金にはならなくても、仲間が集まってYouTubeなどで発信したり、やればできることがあった。そこから逆算して考えると、自分たちのポテンシャルというのは、まだ使ってないところがたくさんあるような気はしたんです。それを感じたコロナ禍ですね。
言い方としては否定的に聞こえるかもしれませんが、作詞家になろうと思わない方がいいかもしれない。
作詞家はなるんじゃなくて、ならせてもらうんです。作曲家も歌手もそうかもしれないですけど。作詞は好きならばたくさん書けば良いし、作曲をしたいならばすれば良いし、好きなことに対して、誰よりもたくさん力を注ぐのが良くて、それが作詞であれば、書き続けるしかないですね。「しかない」というのは否定的な響きになっちゃうんですけど。後はそれを世の中の人が作詞家と呼んでくれるようになるまで、続けるしかなくて……、本当にシンプルに詞を書き続けるしかないんですよね。
僕のことを言えば、杉山君に書いたたった一編の詞が、その後の人生を変えていったように、人生の節目で変えてくれるのは一編の詞でしかない。紙1枚が人生を変えていくということを信じられない人は、その先の風景を見ることはできないと思うんです。僕は経験したからそう言えると言われてしまえばそれまでなのかもしれないけど。未来はこんな風景を見たいなとただ思っているばかりで、なにもやらない人は、その風景は見られないと思います。未来を見るには、毎日毎日、いま目の前にあることを続けていくしかない。作詞家になりたいと思うことも良いんですけど、その前に作詞をしていかないとダメだということですね。すごく当たり前のことなんですけど。
作詞家になりたい人にメッセージとか、作詞家になりたいという相談を受けてもうまく答えられないのは、僕自身も作詞家になりたいと思ったことがなくて、作詞を好きでずっと続けていたら、世の中が自分を作詞家にしてくれた、というのが正直なところなんです。
言葉を使う仕事の中でも、作詞をやりたいというならば、音楽をわかっていた方が良いし、なんでも良いから楽器が一つくらいできると良いかなって思います。言葉のリズム感を培うんです。言葉だから内容とか意味は大事なのは当たり前ですが、作詞に何が役に立つかというと、楽器が弾けるとか、人の前で歌を歌った経験があるというのは、例えば歌手と話す時に、相手の気持ちを感じることができる。
スタジオのヴォーカル・ブースの中で一人で歌っている時にどういう気持ちでそこにいるかがわかる。スタジオの卓の前にいる僕らの1分間と、ヴォーカル・ブースにたった1人で感じる1分間の体感の違いもわかるというのは、実はコミュニケーションをとるのにすごく大事なことだと思う。自分が書いたものを紙の上だけで物語を完結させるんじゃなくて、立体的に考えたり感じていくのが、すごく必要なことじゃないでしょうか。
取材日:2021年7月29日
東京・日本テレビ音楽にて
聞き手:高島幹雄
1957年生まれ。1980年ヤマハポピュラーソングコンテスト出場を機に、1981年CHAGE and ASKAで作詞家としてスタート。以後、長渕剛、安全地帯、HOUND DOG、氷室京介、工藤静香、郷ひろみ、田原俊彦、鈴木雅之、吉川晃司、光GENJI、V6、矢沢永吉、ビリーバンバン、五木ひろし、田村ゆかり、水樹奈々、平原綾香、森山良子、Kinki Kids、AAA、Begin、杉山清貴、岩崎宏美、稲垣潤一、MAX、中村雅俊、山内惠介、Sexy Zone、玉置浩二、竹島宏など (順不同)など幅広いジャンルのアーティスト、更にアニメや特撮、また、パク・ヨンハ、東方神起、SS501など韓流アーティストにも多くの作品提供を行う。2021年現在までに3300曲を越える数の作品を手がける。2009年「また君に恋してる」坂本冬美でレコード大賞優秀作品賞を受賞。2010年同曲で特別賞、JASRAC賞・銅賞を受賞。2018年「さらせ冬の嵐」山内惠介「恋町カウンター」竹島宏でレコード大賞作詩賞受賞など受賞。同年「さらせ冬の嵐」山内惠介で藤田まさと賞受賞。NHKアニメ忍たま乱太郎主題歌「勇気100%」は1993年放送開始以来25年間ジャニーズのアーティストに歌い継がれ、現在も続いている。
【Official HP】
https://avex.jp/matsui/
【Official Twitter】
https://twitter.com/GML2014
中江有里
「コントレール」(2021年9月8日配信)
プロデュース・アルバム『Port de Voix(ポール・ド・ヴォア)』(発売日:2021年1月27日)
池田 聡
35周年シングル「溺れる魚」(発売日:2021年8月11日)
さくまひろこ
「Stay Home~私が帰る場所~」(配信開始日:2021年8月1日)
作曲・編曲:林 哲司
寺嶋由芙
3rdアルバム 『サバイバル・レディ』
(発売日:2021年6月30日)
収録曲「みんな迷子」、「仮縫いのドレス」
平原綾香
「いのちは未来を憶えてる」(配信開始日:2021年6月11日)
竹島 宏
「向かい風 純情」(発売日:2021年6月2日)
藤澤ノリマサ
『La Luce -ラ・ルーチェ-』(発売日:2021年5月19日)
プロデュース・アルバム
ビリーバンバン
「ふたり物語」(配信開始日:2021年5月26日)
レギュラー出演 ラジオ番組
『ここは夜のどこか』
エフエム世田谷 毎週月曜~金曜20:55-21:00(再放送:25:00-25:05)
ミュージックバード(全国のコミュニティFM) 毎週月曜~金曜23:55~24:00
https://twitter.com/kokoyoru2021
https://musicbird.jp/cfm/timetable/dokoka/
書籍
松井五郎×駒形克己 Collaboration Book「時と夢」
発売中(発売日:2021年5月)