作家インタビュー

第06回 宮川泰先生

昭和6年3月18日、北海道留萌に生れる。
小さい頃から、父親の仕事が土木設計技士であった為、引っ越しと転校を繰り返す。
昭和25年、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)に入学、翌年、大阪学芸大学(現・大阪教育大学)の音楽科へ編入、この頃から本格的なクラシックを学ぶ…。かたや学生時代より、自らのバンドで関西地方にて演奏活動を始め、上京後、渡辺晋(渡辺プロダクションの創立者)とシックスジョーズのピアニストになる。
独立後は、作曲・編曲家であると共に、ザ・ピーナッツの育ての親として知られ、テレビ時代の幕開けから現在に至るまで、音楽史に残る数々の名曲を発表し、日本レコード大賞編曲賞・作曲賞など多数受賞。代表作には「恋のバカンス」「ウナセラディ東京」「銀色の道」「愛のフィナーレ」「宇宙戦艦ヤマト」など。
また最近は、テレビ・ラジオへの出演と共に、著名アーティストのステージの音楽監督も努めるなど八面六臂の活躍で、日本ポップス界の重鎮として君臨している。

父親の仕事の関係で、全国を転々と移り住んだ少年時代

当時を振り返り『親父は、住友系の(会社の)土木設計技士で、田舎に橋を架けたり、道路を作ったりする現場監督のような仕事だったんです…だから工事現場が変わるたびに、僕らも一緒に全国をあちこち引っ越ししましたね。』とおっしゃる宮川先生。生まれは北海道留萌で、幼稚園の時には大阪、その後また北海道北見に移り、次には和歌山、大分、大阪の富田林へと、数年おきに引っ越しと転校を繰り返す少年時代を送ってこられたとか

まずはそんな懐かしい幼少の頃の思い出からお話し頂きました。
ところで、お父様は本業の他に“尺八”の免許もお持ちだったとお聞きしていますが?

「そう、父は(尺八の)都山流の免許を持っていましたね。おふくろは好きで、自己流のお琴をやっていたんです。それに小さい頃から、うちには洋楽のレコードがたくさんありましてね、(そのレコードを)聴いていました…蓄音機は手巻きですけどね。一番印象に残っているのは、『ウィンナワルツ』みたいなワルツですね。『ドナウ河のさざ波』が一番早かったかな…そんなレコードを聴いていたから、当時はワルツが好きだったんですね。」

当時のエピソードとして、お母様がいつも子守歌を唄って下さったそうですが?

「あれはうるさくてまいったなぁ。(笑)皆んなが寝て、電気を消してから『ローレライ』とか、女学生愛唱歌集なんかを唄いだすんですよ。(その頃は)うるさいなぁと思ったけど…おふくろだからしょうがないかって。(笑)僕がもうプロになってからも、皆んなが寝静まると自分の趣味で唄いだすんです。それが非常に心に残っていて…面白いおふくろだなぁと思っていました。」

先生ご自身が、初めて楽器を演奏されたのは、おいくつ位の時だったのでしょう?

「(北海道)札幌の小学校に通っていた頃、3年か4年だと思うんですが…親戚のおじ夫婦の所に半年間預けられましてね。そこの家にオルガンがあって、初めて楽器を弾いたのはそのオルガンが最初です。(オルガンの)教則本の曲で、おじに少しだけ教わって、後は自分で勝手に弾いていました。右手でメロディー、左手でハーモニーが、最初から弾けましたね。ハーモニーは、誰にも習わなかったけれど、幼稚園の頃からひとつのメロディーをハモれたんです…そういう才能はあったようです。(笑)」

初めて買った楽器が中学時代
当時は安い家一軒が建つという800円の“アコーディオン”

昭和17年、北海道は北見中学へ入学した頃、先輩の弾くアコーディオンに憧れ、楽器屋へ見に行っては『欲しい欲しい』と思っていた宮川先生。初めて聴いたアコーディオンの演奏曲が、モーツアルトの『トルコ行進曲』だったそうです。その後、終戦と前後して今度は九州の大分県へ…転校先は、かつて広瀬淡窓(=江戸時代末の儒学者)で有名な日田市の日田中学校で、いよいよアコーディオン購入の夢が実現したのだそうです。

続いては、その頃のエピソードからお伺いしてみました。

「終戦直後ですか、800円のアコーディオンを買ったのは…その頃、(引っ越した)僕の家は、大分の山の中でしたから、うちの様なバラックの家だったら、一軒が500円位で建つ時代だった。800円は高いものでしたね。(笑)中学へ通うにも汽車通学で、朝は(汽車の時刻が)6時か9時頃の2本しかない。まして大分の冬は寒いんですよね…履物もズック靴ぐらいしかなくて、それもボロボロになって、時には裸足で通いました。でも学校へ行けば、スリッパがあるので、それを履いて、今では信じられない話ですよね。」

戦後、新しい学校制度で夢の“男女共学”を体験

昭和21年、大阪の富田林中学へ転校後は、新しい学校制度となり、それまで中学へ5年通った生徒は、高校3年生に編入出来たのだそうです。当時の宮川先生も、新学制のもと、高校3年生として、初めての“男女共学”を体験したとか…。

次には、戦後の楽しい学校生活の話題となりますが、まず富田林中学へ転校された時に、軽音楽団に入られたそうですね?

「ピアノが弾けると言うので入って、そこでダンスホール用の音楽を習いました。でも当時、軽音楽のレコードは少ししかなくて、『センチメンタルジャーニー』とか『ビギン・ザ・ビギン』を一生懸命に聴いて憶えました。進駐軍のラジオでは、アメリカのバンドオーケストラの曲を聴いて…ジャズがすごく好きになったんです。その頃、日本では服部(良一)先生の『世界の音楽』(NHK放送)という(ラジオ)番組があって、前田環サンの指揮するNHK管弦楽団の演奏が“シンフォニックスジャズ”“シンフォニックポップス”という感じでしたね…あの頃のNHKは、すごかったなと思いますね。」

そして、学校では初めての“男女共学”を経験される訳ですが、その時のご感想は?

「感激しましたね…でも(新制の)高校になって、最初、男子(学生)と女子(学生)の対面式というのを校庭で全員で行ったんです。その後、ドキドキしながら教室へ行くと、なんと、男女60人位づついたにもかかわらず、僕ら3年生だけは男子が東、女子が西とそれぞれ校舎の両端の教室になってしまい、男女が一つの教室ではなっかたんです。それで女の子達に会いたくて、今度は『聖書クラブ』というのに入ったんです。このクラブだと、女の子と一緒にコーラスが出来る。(笑)…ただそれだけの理由なんです。」

ところで、ピアノを本格的に習い始めたのもその頃だったそうですね?

「(ピアノも)それまでは、自分で何となく憶えていたんですが、その時の校長先生の奥サンがものすごく美人で、(その奥サンが)いつも講堂でピアノを弾いていたんです。それを聴きに行っては、ついでに教えて貰いました…。そもそも僕は、絵が上手だったんで(当時)絵画クラブに入っていたんですが、時々クラブをサボっては、講堂へピアノを聴きに行くので、ある時、絵の先生が『宮川はいるか?』なんて探しに来るんです。そしたらサッと隠れたり、逃げたりと…そんな思い出もありましたね。(笑)」

プロ入りのきっかけ、奥様との出逢いもあった大学時代

京都の絵画専門学校(後に大学に変わる)に2年、その後、大阪学芸大学(現・大阪教育大学)の音楽科に6年在籍された宮川先生。そしてこの大学時代に、プロ入りするきっかけや、今の奥様との出逢いがあったりと、人生の転換期を迎えられたそうです。

続いては大学時代のお話になりますが、最初は、美術のほうの専門学校に入られたそうですね?

「(後に大学となるが)当時は、絵画専門学校と呼んでいたんですが…1年半位は通いましたかね。その頃、夜は大阪の南のキャバレーでアルバイトをしていました。当時キャバレーでは“チェンジワルツ”というのがあって、僕らのアマチュアバンドと、もう一つのプロのバンドと、30分毎に演奏をチェンジするんです。その時、楽屋で待機しているバンドに知らせる合図でワルツを演奏するんです。勿論、(バンドが)チェンジする時も、客はワルツを踊ってる訳ですけど。その時のプロのバンドで、うまいピアニストがいるんで『おっチャン、ピアノうまいけど、何やってんねン?』て聞いたら、その人が、『わしは、大阪学芸大学音楽科の主任教授や。』とおごそかに言われました。(笑)それで早速にも試験を受けて、(大学に)入れて貰いました。」

そして、次に移られた大学にいらっしゃったのが奥様だった訳ですね?

「(この大学には)ピアノの練習室が20位ありましてね、そこでクラシック以外の曲をよく弾いたんです。そうすると友人達が集まってきて、あれ弾け!これ弾け!と…その中に女房がいたんです。ある時、『すみません、“テネシーワルツ”弾いて下さい』て言うんで、『おー“テネシーワルツ”を知ってるのか?』、女としては珍しいなぁと思ったんです。そこで知り合って、その後も、女房にはずいぶんと世話になりました。カンニングをさせてくれたり、ノートを借りたりでね。学生時代、女房はとびきり優秀でしたから…それで結局、女房のほうが先に卒業出来て東京へ帰り、僕は6年間もいて退学しました。(笑)」

その後、プロとして初めて東京へ出てこられるきっかけは何だったのでしょう?

「たまたま平岡精二サン(ビブラフォン奏者)のバンドが大阪に来た時、自分で売り込んだんです。そしたら平岡サンに『明日から来ない?』と言われたんで、彼女(奥様)とも会いたいし、すぐ上京しました。」

渡辺晋とシックスジョーズのピアニストとして、
いよいよ本格的なプロデビュー!

上京後、間もなく渡辺晋とシックスジョーズのメンバーに移り、この時の渡辺晋さんとの出会いが、宮川先生いわく『その後の僕にとって、まさに運命的な出会いだった』そうです。

そこで、まずはバンド時代を振り返り、当時の思い出をお伺いしてみました。

「当時、シックスジョーズのメンバーと、ビッグスリー(松本英彦氏=サックス奏者、白木秀雄氏=ドラムス奏者、ジョージ川口氏=ドラムス奏者の有名ジャズメンの3人を、愛称でこう呼んだ)のバンドとの共演を大阪でやったんです。その時の三つのバンドのそれぞれのドラマーが三人で共演をした時に、僕らは楽屋で休憩していたんですが、三人のドラムソロのメドレーが終わった後、演奏が終わったジョージ川口サンが帰って来て、『あれじゃ、オレは叩けねぇョ!』と、白木サンの悪口をメチャクチャに言うんですよ。そうすると渡辺晋サンが『まァまァまァ…』となだめたんです。しばらくすると今度は、白木サンが戻って来て、『ジョージは最悪!!イモ!!』とわめき、晋サンは、また『まァまァまァ…』となだめる。そして最後に戻ってきたジミー竹内は『あいつら二人はどうしょうもねえよ、トーシロめ(=素人)!!!』と怒鳴ると、またまた晋サンは、『まァまァまァ…えー加減にせーよ!!!!』とにかくこの三つのバンドが、共にステージで共演すると、ドラムのソロがバタバタでしたね…(笑)でも、あの頃はジャズが全盛期でした。その点、渡辺晋サンは統率力のある人だったから、仕事以外の事でもミュージシャンを大事にしてくれましたね。当時、まだ渡辺プロ(ダクション)も小さい会社だったのに、給料をポンとあげてくれたりね…(笑)」

作曲家・編曲家として独立後、初期のテレビ番組の音楽担当や

ザ・ピーナッツの大ヒットで、一躍人気は不動の地位に

作曲・編曲家として独立してからは、昭和34年スタートの『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ)、昭和36年からの『シャボン玉ホリデー』(NTV)など、テレビ草創期時代に数々のテレビ番組の音楽を担当される一方、数々のヒット曲を唄った“ザ・ピーナッツ”を育てた宮川先生。

続いては、当時のヒット番組やヒット曲の数々を振り返り、その思い出をお話し頂きました…。
まずザ・ピーナッツに初めて会われた時の印象からお聞かせ下さい?

「名古屋のとあるクラブに仕事で行った時、“伊藤日出代・伊藤月子姉妹”(伊藤シスターズ→ザ・ピーナッツ)が唄っていたんです。これが仲々上手なんで、早速東京へ呼んだんです。最初、歌を聴いた時は正直ビックリしましたね…声はいいし、ハーモニーもきれい、音程もいいんですよ。その上、彼女たちは双子ですから仲は良かったけど、お互いの競争心があるんです。東京でレッスンに入った時も、歌のメモリー帳がきちんと出来ていてね…名古屋では、いい先生に習っていたみたいで、きっとその先生が、彼女たちの基礎を作ってくれたんだと思いましたね。」

そして、そのザ・ピーナッツをメインにした音楽番組が、昭和34年に始まったフジテレビの『ザ・ヒットパレード』でしたが、先生はこの番組でも音楽担当をされていらっしゃいましたね?

「あの番組は、すぎやまこういちサン(当時の番組ディレクター兼作曲家)のおかげですね…あの人(=すぎやま氏)は勉強もするし、性格もいい、天才肌の方です。たとえばあの番組は、毎週のランキングが出て、前の週と同じ曲は、(前の週と)違う歌手が唄わなければならない。だから毎週(同じ曲でも)アレンジを変えなければならなかった。僕もアレンジャーの1人ですが、毎週アレンジャー3人に競わせる…これも、すぎやまサンの考えだったんですね。バックはスマイリー小原サンのバンドでしたが、スマイリーサンも、テレビ的に絵になる人だったし、きっちりしていましたね。」

ところで先生が作曲された曲で、ザ・ピーナッツの一番最初のヒット曲が昭和38年発売の『恋のバカンス』でしたが、あの曲をつくられた時のエピソードは?

「あれは、渡辺晋サンの前で、スケッチを弾いて聴かせて直された思い出の曲です。(笑)メロディーはいいけど、左手の伴奏の感じは、ポール・アンカの『ユー・アー・マイ・デスティニー』と同じじゃないかと言われた…事実、それを持ってきて作ったんです。(笑)盗作になっちゃうからやめろと言われ、どうしたらいいか?と聞いたら、シックスジョーズなんだから4ビート(ジャズのリズム)でやれと言われたんです。で、その通り作ったらすごく良かったんです。」

次の『恋のフーガ』の時は、アレンジを担当されたんでしたね?

「あの曲は、すぎやまこういちサンが作って、僕がアレンジをやった。アレンジで大事なのは前奏ですよ…あの曲の前奏は、ティンパニーで始まる。当時、歌謡曲でティンパニーから始まる曲なんてなかった。だからすぎやまサンが喜んでくれて、『この作品で、曲は自分だけど、前奏・間奏・エンディングは宮チャンが作曲してくれたんだから、印税をあげたい』と、ちゃんと印税をつけてくれたんです。アレンジは通常、印税がないんだけれど、あの曲だけは格別、すぎやまサンにはお世話になりました。
それから、印税の面で、すぎやまサンにお世話になっているのはもう一つ、『JRA競馬のファンファーレ』ですね…。すぎやまサンの紹介で、服部克久サンなんかと5人で分けて書いて、作曲料も貰った。その後、ゲームブームになり、競馬ゲームが爆発的に売れて、ドーンと印税が入った時にはビックリしました。だから、僕が当ったのは、まず『恋のバカンス』、その次が『宇宙戦艦ヤマト』、そして『競馬のファンファーレ』…それでおしまい。(笑)」

宮川先生の作品で、もうひとつ忘れられないのが、クレイジーキャッツが唄った一連の映画音楽シリーズがあります。ああいうコミックソングも、お好きなほうなんでしょうか?

「ものすごく好きですね。たとえば『ウンジャラゲ』という曲は、植木(等)サンと冗談言い合いながら作っちゃったんですが…あんな楽しいものはない。(作詞の)青島幸男サンなんかは、『ホンダラ節』※の歌詞を、以前知事室に飾っていたそうですが・・・♪何をやってもホンダラッタホイホイ、だからやらずにホンダラッタホイホイと云う詞じゃ、ちょっとまずいんじゃないかな。(笑)『スーダラ節』の時は、(プロダクションの)渡辺社長の家へ集まって、青島サンと植木サンがギャグを連発しながら、大騒ぎして出来た曲なんです。」

※『ホンダラ節』・・・『ほんだら行進曲』(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)

大ヒット作の中には『宇宙戦艦ヤマト』のシリーズなどもありますが、あの作品についての何かでご苦労などは?

「最初に書いた時は、ドンドン出来たんです…好きなものを書けましたからね。でも2作目からが苦労して、最後は一番苦しくて悲惨でした。新しい雰囲気のものを書いても、前のイメージとつながらないとダメなんでね。後のシリーズになるにつれ、段々とものすごい数のものを書かされたのが苦痛でしたね。」

日本を代表するトップアレンジャーのこだわり

作曲家として数々のヒット作を生み出してきたかたわら、日本では、いまだその世界が確立されていなかった編曲(アレンジ)の分野でも、大いに活躍してこられた宮川先生ですが、そんなトップアレンジャーに、現在の日本の音楽シーンについての感想もお伺いしてみました。

「(今の音楽の中にも)仲々よく出来ている作品もたくさんありますが、往々にして味もそっけもないものも多いですね。たとえば詞の文脈がごたごたしてたり、いかにしたら人の心に残るかも考えていない、作品のモチーフとかも一切ない…そんな作り方には疑問を感じますね。やはりすぐメロディーを口ずさめる要素がなくなってしまったら、つまらないですよ。その為には、まず詞があって、その詞のイメージをいかにふくらませて、聴く人にはっきり分かってもらう為に、音楽はどう助けられるかという事が、一番肝心ですね。」

たとえば、作曲と編曲の違いについては、どの様に思われますか?

「編曲の方が、自分にとって難しいし、苦しみますね…と言うのも、作曲はメロディーだけを書いたものですが、その作品をいざ演奏するための肉づけをしたり、装飾をほどこすのが編曲(アレンジ)なんです。だから編曲の場合、音楽的知識や理論をきっちり習っていないと出来ないんです。」

日本テレビとの関わりについて

昭和36年スタートの音楽番組『シャボン玉ホリデー』をはじめとして、宮川先生と日本テレビとのおつきあいは非常に長く、その後の『ゲバゲバ90分』(昭和44年~)『カリキュラマシーン』(昭和49年~)『ズームイン朝』(昭和54年~)『午後は○○おもいっきりテレビ』(昭和63年~)『ジパング朝6時』(平成4年~)など、多くの番組のテーマ曲を宮川先生が担当してこられました。

そこで、日本テレビとの思い出をお聞かせ願いますか?

「何といっても秋元近史サン(シャボン玉ホリデーのチーフディレクター・プロデューサー)と斉藤太朗サン(多数の番組のプロデューサー・ディレクター)がいなかったら、今の僕はいない。特に、斉藤サンは『シャボン玉』以外に、僕をいつも(仕事を)指名してくれたんです。『ゲバゲバ』も『カリキュラ』も『ジパング』も『ズームイン』も『おもいっきりテレビ』も、全部(僕に)やらせてくれました。ワイドショーのテーマ曲は、明るくて分かりやすいものがモットーですね。僕の好きな音楽ジャンルと合っているんですよ。でもテレビ番組のテーマ曲は、途中でフェードアウト(ゆっくり音が消えること)されてしまうので、一回きちっとワンコーラスを聴かせて欲しいですね…(笑)」

今後の抱負 そして長男・彬良(アキラ)さんについて

『テレビ番組で、長生きするようなテーマ曲をぜひ作らせて欲しいですね』と、今後の抱負を話された宮川先生ですが、同じ音楽の道を歩まれているご長男・宮川彬良さんについては?

「あいつはスゴイよ!(仕事を)手伝ってくれた事は何度もあるけど、彼を手伝った事はない。新しい『戦艦ヤマト』の編曲も、頼んで録音してあるんですが、ミュージシャンが録音の時、僕のところへ“いい!”とわざわざ伝えに来るんですよ。でも、追い抜かれるっていうのは淋しいね。彬良の嫁サン(芸大大学院卒業)もすごいんだが、あの夫婦は、仲々いいね。」

今のポピュラー音楽界へのメッセージ

コンピューター音楽が発達しすぎた昨今、『生の音楽を、もう一度かえりみて欲しい』と、熱く話されていらっしゃいました。
そして最後に、今のポピュラー音楽界へのメッセージとしては?

「歌詞がある曲なら、まずその歌詞を大事にして欲しい。その言葉を、もっときれいに、皆が感じてくれる様なメロディーを作らなければならない。たとえば『上を向いて歩こう』は、老いも若きも唄った。そういう皆が唄える曲を、自ら作りたくなる様になって欲しい。」

70歳になられた今も、真底、本当に音楽がお好きで、その上、トップアレンジャーとしての誇りも忘れていらっしゃらない宮川先生のお話しには、大変感服致しました。
今後も、ますますお元気でご活躍を願っております。

宮川泰先生プロフィール

・昭和6年3月18日 北海道留萌に生れる。

・大阪学芸大学音楽科に学ぶ。

◎ 学生時代より自らのバンドで、関西地方にて演奏活動を展開する。
上京後は渡辺 晋とシックスジョーズのピアニストのみならず、アレンジャーとしての手腕を発揮する。
独立後、作・編曲家であると共に、ザ・ピーナッツの育ての親として知られている。
テレビ時代の幕開けから現在まで、音楽史に燦然と名を刻む名作を発表し、
日本レコード大賞編曲賞・作曲賞などを多数受賞する。

今日の音楽シーンにおいて、必須の存在である音楽家として、
テレビ・ラジオへの出演と共に、音楽番組や多くの著名アーティストの主催する、
ミュージカル及びディナーショーなどを、音楽監督として手掛けている。
又様々な音楽シーンへ、テーマ曲を提供しつづけている。

1995年に名匠『宮川組』を結成し、ライブ活動を全国各地において展開中。

現在、名匠『宮川組』を率い、歌手の中尾ミエ・今 陽子・白鳥恵美子などの、
豪華アーティストとの共演も行ない、大変好評を得ている。

●代表作
「恋のバカンス」「ウナセラディ東京」「逢いたくて逢いたくて」「銀色の道」「愛のフィナーレ」「若いってすばらしい」「君をのせて」「シビレ節」「宇宙戦艦ヤマト」など

●映画音楽
「クレイジーキャッツの一連作品」「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」「約束」など

●音楽担当並びに主な出演番組
「ステージ101」「歌のグランドステージ」「勝ち抜き歌謡天国」「ときめき夢サウンド」「紅白歌合戦」「シャボン玉ホリデー」「ゲバゲバ90分」「カリキュラマシーン」「午後は○○おもいっきりテレビ」「ザ・ヒットパレード」「日曜はピアノ気分」「あの人この町」など

●番組テーマ曲
「シャボン玉ホリデー」「愉快にオンステージ」「ひるのプレゼント」「お笑いオンステージ」「ズームイン朝」「二人のビッグショウ」「午後は○○おもいっきりテレビ」「ジパング朝6時」「生活笑百科」など

●著名アーティストのステージショーなどの音楽監督を担当したもの
「ザ・ピーナッツ」「三波春夫」「杉 良太郎」「フランク永井」「植木 等」「梓 みちよ」「小柳ルミ子」「森 進一」「小林幸子」「川中美幸」「木の実ナナ」「沢田研二」「井上 順」「堺 正章」「小堺一機」「麻美れい」「剣幸」「田辺靖雄」「九重佑三子」「中島啓江」「園 まり」「里見浩太朗」「日向 薫」「大浦みずき」「坂本冬美」「島倉千代子」など

その他にも「西武劇場のショウガール」「東京シティフィルハーモニック管弦楽団」のステージやコンサートも多数手掛けている。

FM東京「歌謡ベスト10」のDJとして、1975年より1990年まで出演。
1979年に朝日新聞で「サウンド解剖学」を連載。。
1981年に中央公論社より「サウンド解剖学」を出版。
現在、関西競馬のために作曲した、重賞レースのファンファーレが、ゲームソフトの「ダービースタリオン」の中で使用され、好評を得ている。