売野雅勇さんインタビュー

「涙のリクエスト」(チェッカーズ)、「2億4千万の瞳」(郷ひろみ)、「め組のひと」(ラッツ&スター)「Somebody's Night」(矢沢永吉)など数多くの大ヒット曲を送り出し、また、「少女A」(中森明菜)、「最後のHoly Night」(杉山清貴)など弊社の管理楽曲としても関わりが深い作詞家・売野雅勇さん。
2016年にデビュー35周年を迎えてもなお、アーティスト・プロデュースなどで精力的に活動している中、初公開のエピソードも交えながらお話しを伺いました。
まずは。売野雅勇さんが作詞家になるまでの長い道のりを伺うと、まるで壮大な物語のように語られていきました。
就職活動で広告代理店へ
ぼくは作詞家になるつもりはなくて…書く仕事だったら音楽評論家にはなりたいという気持ちが多少あったんですね。ともかく音楽に関わる仕事をしたいという願望があったようです、振り返ってみると。
就職活動は、CBS・ソニー(現・ソニーミュージック)を邦楽のディレクターとして試験を受けたんです。それとLF(ニッポン放送)に初めてできた音楽ディレクターっていう専門職、その他には、数社の広告代理店。結果は、CBSは落ちたけれど、LFは試験が特殊で音楽に関する論文の他に、譜面と歌詞が8小節ずつ書いてあって、その曲名を答えよというのが100題(笑)。すべて知っている洋楽のヒットソングで、全部正解しました。こんな楽な就職試験はなかったですね(笑)。その筆記試験は当然通り、次の課長部長面接みたいなところも難なく通過して、社長・重役面接まで行ったんです。何百名の中から残ったのは上智2人、慶応2人、そして早稲田が1人。その最後まで残った5人が最終面接を受けまして、結局、ぼくは落ちちゃうんです。でも、採用通知は来ないだろうと予測してました。1%も甘い期待はしてなかった。というのは、面接当日、控え室で待っている間、5名の学生たちは雑談しているのですが、ぼくは話の輪には入らずに、他の4人を観察してた。誰が受かるだろうかと、自分が社長だったら誰を採用したいかと考えながら。で、こいつだ!と目をつけた男がいた(笑)。自分が面接官なら、ぼくではなくてこの男を取るだろうと考えたわけです。ぼくを採用したら大したことのない企業だと(笑)。ですから、とても残念だったけれど落ち込むこともなかった。
で、予想通り落ちたのですが、グループ会社のポニー(現・ポニーキャニオン)を勧められました。ポニーだったらディレクター職で推薦するから行ってくれって言われたんです。ぼくはレコード会社といえば、カッコいい洋楽のCBSとEMI(東芝EMI/後にユニバーサルミュージックに統合)しか浅はかなことに知らなかったんです。ポニーはどんなレコードを出しているんだろうって調べてみたら、山本リンダや演歌だったので、こんなところに行きたくないと思って、ありがたいけれど結構ですって断ってしまうんです。行けば良いのにバカだからね(笑)。それと、CBSも落ちちゃったのだけれど、営業職だったら通ると思うから、営業でもう1回受けてみてって言われましたが、これも蹴っちゃうんです。何を考えてるんだか、愚かしい限りですけれど、想像してみると、音楽をつくることにすごく執着があったんですね。
その年は、ちょうどオイルショックの年で、未曾有の就職難の時代が始まるからと、大学は就職が決まっている学生は卒業させるという方針を、冬休みの始まる前に発表したりしたんです。社会全体の空気が不安で暗くなっていく年の瀬って感じでしたね。ぼくは、就職試験は落ちたし留年するつもりでのんびりかまえていたんですけど、女友達から「お父さんの会社も大変で自宅待機よ、大不況が始まるみたいだよ」なんて聞かされて、きっと急にビビったんですね。それから慌てて卒論を書き(笑)、なんとか卒業試験もパスして、たったひとつだけ受かっていた、当時は業界4位の、大阪に本社がある最も旧い広告会社、萬年社に入りました。
萬年社から音楽を求めて
東急エージェンシー・インターナショナルへ
卒業してから数ヶ月後にコピーライターをやることになるんです。でもやっぱり音楽に関わりたいなあ…、影響力もさることながら時代の先端を行く雰囲気があった今野雄二さんみたいな音楽評論家にどうやったらなれるのかな? などと思いながら『ニューミュージックマガジン』を読んだり、細野晴臣さんの「泰安洋行」など日々聴いていました。そんな時に、東急エージェンシー・インターナショナルが、朝日新聞にちっちゃな三行広告で求人募集をしているのを偶然見たんです。「音楽に詳しいコピーライター求む」と書いてあったそれを切り抜いて、自宅の机の前の壁に貼ったんです。
応募資格があって、コピーライター歴3年以上、26歳以上と書いてある。ぼくは当時、コピーライターやって2年半で25歳だったから、応募していいのか迷ったんです。ウチに泊まりに来た友達がそれを見つけて、「売野、会社を辞めた方が良いよ。これカッコいいよ」って言うんです。何がカッコいいのか訊いてみたら、「こんな3行しか無いショボい広告だよ。掲載料がたった3万円くらいのちっぽけな広告で、100倍近い競争率を勝ち抜いて入った萬年社を捨てる、そういう生き方はカッコいいから、売野、辞めてくれ。そんなヤツがいてほしい」って言うんです(笑)。その言葉で調子づいちゃって、その日に履歴書を書き、次の朝にポストに入れて、そして試験を受けたら簡単に入れちゃった。25歳なのに(笑)。いい加減だなあって思った、社会って。このことで、人間が決めることってルールといっても簡単に変わるという教訓を学んだ気がします。それまでは、どちらかといえば、むしろ必要以上に緊張する不器用で生真面目なタイプの人間だったのだけれど、そのあたりから、徐々にリラックスして社会に適応していった気がします。
CBS・ソニー洋楽担当のコピーライター
東急エージェンシー・インターナショナルに入ってみたら、就職試験に落ちたCBS・ソニーの洋楽のコピーライターだったんですね。これが思っていた100倍くらい大変で、ポップスからジャズまであらゆるジャンルの音楽を聴いてコピーを書かなくちゃならなかった。20数名のディレクターがいて、LPが毎月40W(レコード40枚)くらい発売になる。これを全部聴いて、当時は音楽専門誌が多いから、それぞれの雑誌の広告のデザインにあわせてコピーを書くわけです。例えば40誌あったら、40誌×アルバム40枚分のコピーだから160パターンのコピーを書く。朝10時くらいに会社に行きずっと書きっぱなしでも、夜の8時、9時には終わらないんですね。会社内に音楽ブースがあって、そこで大音響で聴いて、原稿用紙を埋めて、フル稼働する。そのルーティーンです。これをひたすら真面目に10か月続けたら、書く技術だけはおそろしくアップしましたね。考えると、素晴らしいトレーニング期間を与えられた気がします。
そろそろ新しい刺激がほしくなってきた頃、マッキャン・エリクソン博報堂と第一企画という、2つの広告会社から誘われて、後から話が来た第一企画に移りました。