作家インタビュー

第02回 菅野祐悟さん

『東京タラレバ娘』(2017)、『ハケンの品格』(2007)、『ホタルノヒカリ』(2007)などヒットドラマをはじめ日本テレビ系の作品を多数手がけている作曲家・菅野祐悟さんに、作曲家への歩み、キャリアについてのインタビュー。
まず、菅野さんの音楽歴、幼少からの音楽体験から伺ったところ、順を追って、少年時代から作曲家へのデビューまでのエピソードがノンストップで語られました。

音楽が豊かな環境

4歳の時に習い事としてヤマハのピアノ教室に通い始めました。同じ頃、母親が趣味でクラシックギターをやっていて、僕もその先生からクラシックギターを習い始めたんです。小学校1年生の時に両方続けるのは大変なので、どっちにするかと聞かれて、僕はピアノの方が苦手で、ギターの方が好きだったんですけど、幼心に辛い方を選んだほうが親が褒めてくれると思って、ピアノを選んで今に至ってます。プロで音楽をやる上で、鍵盤が弾けるというのは有利というか、必要なことなので、あの時にピアノを選んでおいて本当に良かったなと思います。

父親は、オーディオマニアで、自分で木を切ってスピーカーを作ったり、真空管アンプもハンダゴテを持って作ったり、そうやって趣味でオーディオルームを作っちゃう人だったんです。ある時、父親に「そんなにオーディオをいじっているならば、生で音楽を聴きに行けばいいじゃない」って話したことがあるんです。そうしたら、それじゃ意味が無くて、自分が作ったオーディオから良い音が出るのが喜びと言っていました。父親がオーディオの音をチェックするリファレンスのCDがキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』の1曲目。それを僕が大学に入って家を出るまでずっと聞いて来たので、血となり肉となって、僕の音楽のベースになっています。プロではないんですけど、音楽が好きな家族の中で育ちました。

小学1年で初めての作曲。作曲家を志望

小学校に入った時に、ヤマハではJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)というのをやっていて生徒に作曲をさせるんです。普通の音楽教室ならば年に1回か2回ある発表会で既存のクラシックなどを弾かせるところを、ヤマハは小学校1年生からもちろんクラシックの曲はやるんですけど、それプラス、自分のオリジナル曲を作らせて、それを発表会で演奏させるという教育プログラムがありました。それで僕は小学1年から作曲をするようになったんです。僕はクラシックのピアノをあまり真面目に練習するタイプではなかったのですが、自由に音楽を作曲して弾くことが性にあっていて、それが好きで続けました。

光GENJIや中森明菜などその頃に流行っていたポップスもなんとなく聞いたりはしていました。父親がインストゥルメンタルが好きで、ジャズやクラシック、イージーリスニングのレコードがたくさんありました。リチャード・クレイダーマンの王子様みたいなジャケットを見てカッコいいなと思って、憧れたりしたんです。

この頃すでに作曲家になりたいと思っていました。親がNHK大河ドラマが好きで、僕が親の膝の上で観ていた時に、オープニングがすごく印象的でカッコ良くて、作曲家の名前が毛筆のような文字で大きく出るのにすごく憧れていて、いつかこんな仕事ができたら良いなというのをなんとなく感じていました。それで小学生の時に書いた将来の夢には、「作曲家になりたい」って書いていました。

中学、高校での音楽体験

中学になるとドラムセットがカッコいいなあと思い、ドラムをやりたくなって吹奏楽部に入りました。そこでストラヴィンスキーの「火の鳥」やホルストの「惑星」などを演奏しました。商業音楽と思って聴いていなかったんですけど、結果的にクラシックの中でも舞台音楽やバレエ音楽などに割とひかれていたような傾向がありました。吹奏楽部を一生懸命やりながらも、友達の影響でTM NETWORKが好きになって、コピーバンドをやって小室哲哉さんのマネをしてキーボードを弾いてました。

中学の時は、父親がエンニオ・モリコーネやミシェル・ルグランも聴いていて、その時は映画音楽という認識は無かったんですけど、クラシックやジャズとは別の美しい音楽と出逢って、これは何なんだろう?と思って。それが映画音楽だとわかって、こんなに素晴らしい音楽を作れて、職業になるんだったら良いなと。小学校の時に思っていた作曲家になりたいのとはまた違って、中学では映画やドラマの音楽を作りたいというようにどんどん具体的になっていきました。小学校の頃からずっと作曲家以外の職業につきたいと思ったことは一度も無いんです。

高校の時に父親の転勤の都合で、埼玉の川越から栃木に引っ越したんです。栃木の高校でもバンドをやりつつ、音大の作曲科に行こうと思って、そのための勉強をしました。それと同時に、ポップスの方のジャンルではR&B、ブラック・ミュージックをすごく好きになっていきました。

大学時代、プロへの道を模索

大学は一浪して、東京音大の映画放送作曲コースという作曲家の中でもポップスや商業音楽に特化したところに入ったんです。そこでは色んなところからそういうことをやりたい人たちが集まっていて、オシャレなクラブミュージックみたいなのがあるということを知って、先輩に連れて行ってもらったクラブでハウスとか、テクノ、ボサノヴァとかに触れていったんです。ホーンやコーラスがいる大所帯のバンドをやっている先輩もいて、特に演奏が上手い人たちが集まってアシッド・ジャズとか、ジャジーでファンキーでキメがあってみたいなのが当時すごくカッコ良くみえたんです。僕もコレをやりたいなと思って、自分がリーダーになって早稲田大学のジャズ研究会とか、ボサノヴァ研究会みたいなところに顔を出して、先輩が卒業などでそろそろバンドを解散するっていう時にメンバーを引き抜いて自分のバンドに入れたりして、ホーン・セクションがいたり、コーラスも3人くらいいるような大所帯のバンドを作って、そこでカヴァーや自分のオリジナルをやったりしてライヴハウスに出たりもしていました。

その頃はR&Bが全盛の頃で、例えばDOUBLEとかm-floが出て来た頃で、UA、CHARA、大沢伸一とかのジャパニーズR&Bみたいな人たちに憧れを持つようになって、本場のメアリー・J. ブライジなどのR&Bシンガーにも興味を持ちはじめました。他にジャズ系の人とも仲良くなってビル・エヴァンスを耳コピしてとか、ジャンルを問わずいろんな音楽を吸収した時期で、学校外のいろんな人たちと音楽をやって、そういう中で、サックスってこういう楽器なんだとか、フルートはこうなんだとか、この楽器とこの楽器を合わせて演奏するとカッコいいとか、バンドでは自分がアレンジもやっていたので、楽器の仕組みとかいろんなことを勉強させてもらいました。

大学の後半には曲をたくさん作っていたので、いろんなところに売り込みに行ったりもしました。あと、早稲田の映画研究会がインディーズ映画を作ると聞いて、その映画のための音楽を作りました。こちらは音大なので、バイオリンとかチェロが出来る人はキャンパスにいっぱい歩いてましたから、その人たちに声をかけて演奏者を集めて、六畳一間の壁も薄いボロボロの和室に住んでいたんですけど、そこをスタジオ代わりに弦カル(弦楽カルテット=ヴァイオリン2本、ヴィオラ1本、チェロ1本)を呼んで、マイク1本を立てて、指揮して録音していると、「うるせー!」って怒鳴り込まれたりもしました(笑)。録音中に電車が走ると「ゴメン、電車の音が入っちゃったからもう1回やって」とか言いながら映画の音楽を作りました。当時のインディーズ映画で生で弦カルが入ってるなんて他には無かったので、とても喜ばれたし、僕の中でも「やってやったぜ」みたいな気がしたり(笑)。でもよくわからずにやっていたので、音域外を譜面に書いちゃったりとか、いろんな恥をかいて、恥ずかしいなと思いながら、失敗を糧にして、いろいろ勉強させてもらった時期でした。

あの頃は、MISIAとかUAに憧れてクラブで歌っている女性がいっぱいいたんです。彼女たちは輸入盤のレコードやCDを買ってきて、そのカラオケトラックに自分のオリジナルのメロディーを乗せて、クラブのショーケースとかで歌っていたんです。女性シンガーのプロデューサーがカッコいい時代だったので、僕はそういうトラックから作れるので、クラブで女の子に「オリジナルを作ろうよ」とか、「デビューしようぜ一緒に」って声をかけてたんです。自分がプロデューサーとして楽曲を作って、彼女が歌って一緒に売れたらカッコいいと思って、いろんな子に声をかけてデモを作ったりしてましたね(笑)。

その頃から音楽の仕事を少しずつ貰えるようにはなってきたんですけど、食べていくにはつらくて、大学を卒業する頃になれていたら良いなと思ったスーパー・プロデューサーにもなれていなくて、これはヤバいと思い、歌モノのコンペの話を貰ったりもしたのですが、デモを出しても全然通らなくて…。これは本当に食べていくのは難しい思って、ところかまわずCMの音楽制作会社などにもデモテープをたくさん送ったんです。何度も送っているうちに声がかかるようになっていったんです。それでCMのお仕事などをやりだしたんです。

CM音楽制作会社に入社?!

ある、CMをメインに作っているプロダクションから、ウチに来ない?と声がかかって入ったんです。3ヶ月の試用期間があって4ヶ月目から正社員みたいな感じで、通いの常駐作曲家みたいな感じで、ここは修業の場としてはすごく良いなと思っていたんです。3ヶ月目になったら社長に呼び出されて、「君は協調性が無いので社員作家は向いて無いと思うから、フリーでやった方が良いよ」って言われて、クビになっちゃったんです。その後、今の事務所(ワンミュージック)に入れて頂きました。

ドラマ音楽デビューから目標の達成

事務所に入ってからもCMの音楽を続けて、アニメのCDドラマなどのお仕事をやらせてもらいながら、たくさんのコンペに出させてもらいました。それで27歳の時にフジテレビドラマ『ラストクリスマス』(2004)のコンペに通って劇伴デビューしました。以来、今日まで殆ど毎クール、ドラマの音楽をやらせて頂いています。ありがたいことにずーっとやらせて頂いてます。だんだん映画監督からも声をかけて頂けるようになりました。先日は滝田洋二郎監督、大友啓史監督と御一緒させて頂いてとても嬉しかったです。僕が大好きなドラマの音楽制作を起点に、映画やアニメ、ゲームなどにお仕事が広がっていきました。事務所に入る時、社長に「僕は月9と大河ドラマの音楽とガンダムの音楽がやりたい」と最初に言ったんです。そうしたら最初のお仕事が月9『ラストクリスマス』で、大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014)と同時に、『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014)の依頼が来たんですよ。それでコンプリート(笑)。他にもやってみたかったのが朝ドラ。それも今年の4月からの『半分、青い。』で達成しました。僕がすごくやりたかった番組の音楽を全部やらせてもらったのですが、これからの目標を失ったわけではないです。でも、自分が想像していたキラキラした未来や理想よりも、現実の方が勝っているというか、そういう環境でお仕事させてもらっているので、メチャメチャ幸せなんです。インタビューでこんな事を言って大丈夫でしょうか(笑)。

ーーやりたかったことが全部叶うというのはなかなか無いことですから、言い切って良いと思います。オリンピックで言うと金メダルを3つとったようなものですから。ここまで一気に語って下さいましたが、当初の目標がすべて達成された今、これからやりたい仕事の方向などはあるんでしょうか?

僕はいろんなことをやりたがる人間なんですけど、まずこれはすでにやっていますが、コンサートです。コンサートは80人くらいの編成によるオーケストラで毎年一度やっているんですけど、、、。これが全国ツアーや海外公演ができるくらい、自分が作っているサウンドトラックの音楽がもうちょっとメジャーになったら良いなと思っています。サウンドトラックの音楽は成熟していけばいくほど、メロディーが無くなっていくんですよ。そうするとどんどん絵(映像)との相性は良くなっていきます。単体の音楽として作っているものではないんですけど、例えばストラヴィンスキーが「火の鳥」を作った時にバレエから離れて単独の音楽として演奏され続けたり愛され続けられたりするように、自分のサウンドトラックの音楽も作る音楽も単体としてすごく強い音楽を作れているかどうかですね。例えばテレビドラマを見た人が僕の音楽を聴いてピンと来て、調べて、ホームページとかTwitterにたどり着いて、コンサートをやっているという情報を特定して、チケット代を払って、電車賃もかけて観に行くモチベーションって、そうとう難易度が高いと思うんです。そこまで強い音楽、ドラマで聴いてコンサートまで行きたくなる音楽を果たして自分が作れているか作れていないかって思ったら、コンサートをやってみなければわからないじゃないですか。コンサートはそういう意味合いもあるし、自分が作った音楽を人前で演奏できるというのは他に無い喜びだと思うんです。自分の音楽をお客様と共有できることはすごく嬉しいことですし、空間を共有できることは特別な事だと思っています。

ーードラマや映画の音楽を作っている作曲家の方で、作品が出来たリアルタイムに近い内容のコンサートを定期的にやっているのは菅野さんだけですよね。

みんなやっているのかなと思ったら、そうでもないんですね(微笑)。やれば良いのにって思うんですけど。ーー皆さん、やりたくても躊躇しているんじゃないでしょうか。サウンドトラックの音楽だと、レコーディングの音を生で再現するのに、人数が多い演奏者やそのリハ、ホールのレンタル料などの経費とチケット代、その売上の兼ね合いなどの条件面で。僕も最初のコンサートっていうのはあったので、その時は躊躇しました。でもチャレンジャーなので、いきなり大きいところでやったんです。自分にファンは1人もいないかもしれないのにいきなり大きいところでやって、最初こそとても心配がありましたが、僕はやって良かったと思っています。

ーーコンサートのプレイヤーは、レコーディングと同じ方々なんでしょうか?

リハーサルが3日間あって本番ですからスケジュールが合う合わないもあって、全員がレコーディングと同じわけではないですけど、両方をやってくれる方もいます。両方同じプレイヤーで出来るのは、サウンドトラックとコンサートとの幸せな関係性だと思います。

ーーこれだけのコンサートを続けてこられると、今後、菅野さんのユニットを作って活動したいというような考えもあったりするのでしょうか?

コンサートのメンバーは十数年間、ほぼ同じなんですよ。年に1回会う同窓会みたいな部分もあります。僕は割と興味が毎日変わるんです。だから例えばヴォーカルを入れたユニットをやったとしても、このヴォーカリストだけでずっとやっていきたいとかそういう風にはならないと思うんですね。今日は、この人でずっと、と思っても、明日には違うことを考えちゃうタイプなので、今のところは特定の人とユニットを組みたいというのは無いですね。

ーー多くの映像作品を手がけてきた菅野さんにとって、特に思い出深い作品を挙げて下さい。

『SP 警視庁警備部警護課第四係』(2007)は、僕の名前をたくさんの方々に知って頂けたドラマでした。と同時に『SP』のお話が来る直前に『ガリレオ』(2007)の音楽を引き受けていました。当初は引き受けて良いか大変迷いました。両方やりたいですけど、スケジュールがタイトな中、やりたいからってやっても迷惑をかけてしまう。時間的には大変でしたけど、その後、『SP』を手がけた本広監督とは今年の3月公開の『曇天に笑う』まで、ほぼ全ての作品で御一緒させて頂いているので、僕の人生にとって大きな作品だったと思います。あの時、もし出来なかったら、その後の人生も違ったものになったと思います。あとは、やはり最初のドラマ『ラストクリスマス』ですね。日本テレビ音楽さんのサイトのインタビューでフジテレビドラマの話が続いて申し訳ないです(微笑)。『ラストクリスマス』はコンペだったんですけど、西谷弘監督、プロデューサーの大多亮さん、選曲家の藤村さんが、せーので同時に僕を指してくれたんだそうです。西谷監督とはその後、『ガリレオ』シリーズや『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(2014)、『刑事ゆがみ』(2017)、映画『アマルフィ 女神の報酬』(2009)、映画『昼顔』(2017)などずっと御一緒させて頂いているので、そういうその後のつながりを考えると『ラストクリスマス』が全ての始まりでした。日本テレビは、加藤プロデューサーに起用して頂いた『あいのうた』(2005)が最初でした。そして『ハケンの品格』(2007)や映画にもなった『ホタルノヒカリ』(2007)は大ヒットしましたし、自分の中でも代表作となっています。

ーー日テレのドラマでは近作である、昨年の『東京タラレバ娘』や『ウチの夫は仕事ができない』(2017)についてお伺いしたいと思います。

『東京タラレバ娘』は、先ほど名前が出た加藤プロデューサーですが、大変話題になったドラマでしたね。菅野って、『SP』みたいなハードな作品が得意な作曲家だと認識されてたと思うんですけど、菅野はラブコメもイケるんだ(笑)といったようになってたら良いなと思います。『ウチの夫は仕事ができない』は、ちょうど映画『ラ・ラ・ランド』が流行っていましたが、ミュージカル要素を取り入れたドラマということで、他にないおもしろい作品になりました。出会った作品によって自分の音楽の作風や世の中からの見え方も変わってくるので、作品、そしてプロデューサーや監督との出会いも大切ですね。どなたと出会っても、この先ずっとこの方とお仕事をしたいなと思いながら作曲をしているんですけど、一方では、菅野はこういう作品が得意なんだと思われている時は、同傾向の作品が集中します。『東京タラレバ娘』をやらせて頂いたことで、また仕事の幅が広がりますね。日本テレビでは『ホタルノヒカリ』などのプロデューサー櫨山さんにもすごくお世話になりましたし、僕が大好きな監督で『ゴーストママ捜査線~僕とママの不思議な100日~』(2012)や『ヒガンバナ~警視庁捜査七課~』(2016)で御一緒させて頂いている大谷太郎監督とも、是非また御一緒できたら良いなって思います。

ーー今までのお話しと重複する部分もあるかもしれませんが、作曲についての考え方、ポリシーのようなものってありますか?

音楽とは空間を作るのに必要なものだと思うんです。僕は建築にも興味があるんですけど、建物というハコがあって空気があるのと同様に、音楽もハコがあって音楽があって1つの空気が出来上がるじゃないですか、ドラマだったら僕が作った(音楽という)空気を、映像と同時に吸うわけです。それくらい大事な要素が音楽なんですけど、例えば、『ウチの夫は仕事ができない』の空気と『東京タラレバ娘』の空気が一緒だったら困るわけです。『東京タラレバ娘』でしか吸うことが出来ない空気。それを感じることが出来ると『東京タラレバ娘』の世界に行っちゃえるような、完全なフル・オーダーメイドの音楽を作りたいなって思っているんです。他に流用できないというか。音楽を聴いた時に表面的なものではなくて、例えば『東京タラレバ娘』ならば、その音楽が観る人の心の奥底まで入っていけるような音楽が作れたら良いなと思ってます。よく例え話に出すのが、自分が洋服のデザイナーだとしたら、お客さんと面談するんです。どこに着て行くのか、どういう風に思われたいのか、同じ人でも場所やケースによって、着て行く服が変わるじゃないですか。なので、同じ刑事ドラマであっても、この主人公はどう見せたいのか、何を伝えたいのか、そういうことを打合せでいろいろ聞くんです。相手が求めていることの本質をなるべく掴んで、頭からつま先まで完全オーダーメイドの音楽、その番組のアイコンになるような音楽を作るように心がけています。でも、相手がロックが良いと求めてきた場合に、ロックが合うかもしれないけど、このドラマの世界観に合うのはジャズなんじゃないですか?っていうのをこちらから提案することもあります。僕は音楽の専門家なので、相手が想像している以上の音楽を提案できたらと思っています。音楽をどのくらいの量で、どんな内容の曲を作るかというメニュー表というのがあるんですが、僕はそれが苦手なんです。最近はそれが浸透して、メニュー表はあまり出てこなくなりました(微笑)。こういう音楽と決まっているものをそのまま作るのではなくて、何を作りたいのか?ドラマの本質は何なのか?というところから考えて提案するのが作曲家の仕事なんじゃないかなって考えてます。それがフル・オーダーメイドの音楽になります。例えば、悲しいシーンにただ悲しい音楽が流れていても、菅野祐悟って調べるところまではいかないと思うんですよ。このシーンでこう来たか!とかこの音楽って面白いなって思ってもらえたら、検索してコンサートまで来てもらえることに繋がると思うんです。サウンドトラックの作曲家は、たくさん音楽を知っている必要があります。オーケストレーションやクラブミュージック、ロック…いろんなジャンルの音楽ができて当たり前なのがサウンドトラックの作曲家なので、そこで新しい価値みたいなものを提案できればうまくいくと思います。

ーー最近のお仕事では、4月から始まったNHKの朝ドラ『半分、青い。』もありますが他にも進行中のものはありますか?

久本雅美さんと板野友美さん主演の『イマジネーションゲーム』という作品に、作曲家としてだけではなく、友人と一緒に企画からたずさわってまして、撮影が終わって、今は音楽を作っていて、夏頃に公開なんです。
さっきの話みたいな作品の本質はどこにあるのかを考えだしたら、今度は大元からたずさわってみようかなと。お金を集めたり、脚本を考えたり、キャスティングしたりというのを一からかかわってみて、そうなると音楽は一番最後じゃないですか。そうすると作品を作るのってこんなに大変なんだっていうのがわかって、作曲家として今後発注を受けた時に、今以上にもっと大事に大切に取り組もうと思いましたね(微笑)。
一つの作品を命がけで作っているプロデューサーや監督がいるということがすごくわかりましたし、良い勉強になっています。総合エンターテインメントである映画に立ち上げからかかわることで、自分の根本的な考え方も変わって、面白いですね。

ーー音楽を離れてプライベートでは、最近どんなことを趣味として楽しんでいらっしゃいますか?

アートが好きなんです。四国の直島や海外の美術館にも行くんですけど、そういうところでアートを感じていると、音楽もアートだなと。芸術っていう意味では。美術館のゆったりした空間で現代アートを観ていると、本当に音楽も自由で良いんだなみたいなことに気づかされます。
ジェームズ・タレルという形が無い光を形があるように見せる芸術家の作品を観ると、光って見えるものだったんだ、と新しい概念が生まれました。心臓の音を集めてアーカイヴしている美術家がいて、自分の心臓の音を録音して、音楽と合わせてクラブミュージックのように爆音で鳴らせる空間があるんですけど、そうすると自分の体内にある音からも音楽が創造できるんだなという気づきもあったりします。音楽とリンクする部分がたくさんあって、自分が絵を描いている時でも、そうだったりします。
他には耽美な世界のヨーロッパ映画が好きですし、ハリウッド映画などは観るようにしています。でもやっぱり音楽が気になるんです。趣味的な空間にいても音楽の仕事に反映するようなことを考えることが多いので、完全に趣味だけの時間というのは無いですね。

ーーこのサイトでインタビューを読む方の中にはサウンドトラックの作曲家になりたい人もいると思います。そのような方にメッセージをお願いします。

まずは僕のコンサートに来て下さい(笑)。ドラマを観る時に、劇伴の音楽にも耳を傾けて下さい。作曲家を目指している人がいたら、サントラの作曲家はすごく大変だから止めておいた方がいいんじゃないかと(笑)。書けなきゃならない音楽のジャンルが広いので、ただ音楽が好きなだけでは難しいと思います。
それでもちゃんと職業にしてやっていけるのならば、僕は世界で一番すてきな職業だと思っています。発注が来たら嬉しいし、好きなことをやって生きれたら嬉しいし、テレビから自分の音楽が流れてきたら嬉しいし、自分の名前が映像にクレジットされたら嬉しいし、音楽を聴いて感動してくれる人がいたら嬉しいし、サントラ盤が出たら嬉しいし、コンサートをやったら感動してくれた人と同じ空間を共有できるのが嬉しいし、いろんな喜びがたくさんある職業だと思います。

取材:2018年2月28日
菅野祐悟氏の仕事場にて
聞き手:高島幹雄

インタビュー中に登場した日本テレビ系ドラマのサウンドトラック・アルバム
※2018年現在発売中の作品のみ掲載(ジャケット画像提供:株式会社バップ)
あいのうたo.s.t(2005)

あいのうたo.s.t(2005)

ホタルノヒカリ オリジナル・サウンドトラック (2007)

ホタルノヒカリ
オリジナル・サウンドトラック (2007)

ドラマ「ヒガンバナ~警視庁捜査七課~」オリジナル・サウンドトラック(2016)

ドラマ「ヒガンバナ~警視庁捜査七課~」
オリジナル・サウンドトラック(2016)

日本テレビ系 水曜ドラマ 「東京タラレバ娘」 オリジナル・サウンドトラック(2017)

日本テレビ系 水曜ドラマ
「東京タラレバ娘」
オリジナル・サウンドトラック(2017)

ドラマ「ウチの夫は仕事ができない」オリジナル・サウンドトラック(2017)

ドラマ「ウチの夫は仕事ができない」
オリジナル・サウンドトラック(2017)

【映画『イマジネーションゲーム』公式サイト】
http://imaginationgame.jp/

菅野祐悟(YUGO KANNO)

1977年生まれ。東京音楽大学作曲科卒。2004年ドラマ「ラストクリスマス」で劇伴デビュー。映画「アマルフィ 女神の報酬」で第19回日本映画批評家大賞「映画音楽アーティスト賞」と日本シアタースタッフ映画祭で「音楽賞」を受賞。2014年5月放送批評懇談会で劇伴作曲家として月間ギャラクシー賞、2015年6月第52回ギャラクシー賞テレビ部門で奨励賞を受賞。現在、映画・ドラマ・アニメなど幅広いメディアで活躍中。

主な作品

■映画
「曇天に笑う」「祈りの幕が下りる時」「ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~」「亜人」「昼顔」「3月のライオン」「ボクの妻と結婚してください」「劇場版MOZU」「幕が上がる」「謎解きはディナーのあとで」「真夏の方程式」「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 」「映画ホタルノヒカリ」「麒麟の翼~劇場版・新参者~」「カイジ 人生逆転ゲーム」「SP THE MOTION PICTURE 野望篇/革命篇」「アマルフィ 女神の報酬」「容疑者Xの献身」 他多数

■ドラマ
NHK連続テレビ小説「半分、青い。」NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」「刑事ゆがみ」「ウチの夫は仕事ができない」「東京タラレバ娘」「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」「花咲舞が黙ってない」「アイムホーム」「銭の戦争」「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」「MOZU」「安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~」「ガリレオ」「SP 警視庁警備部警護課第四係」 他多数

■アニメ
「ニンジャバットマン」「PSYCHO-PASS サイコパス」「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない/スターダストクルセイダース」「グランクレスト戦記」「BLAME!」「亜人」「ガンダム Gのレコンギスタ」 他多数

■その他
PlayStation 4「仁王」、PlayStation 3「rain」、NHK・BSプレミアム「おとうさんといっしょ」オープニングテーマ、NHK「いないいないばあっ!」まねっこマーチ 他多数

【菅野祐悟オフィシャルサイト】
http://www.yugokanno.com/