菅野祐悟さんインタビュー

『東京タラレバ娘』(2017)、『ハケンの品格』(2007)、『ホタルノヒカリ』(2007)などヒットドラマをはじめ日本テレビ系の作品を多数手がけている作曲家・菅野祐悟さんに、作曲家への歩み、キャリアについてのインタビュー。
まず、菅野さんの音楽歴、幼少からの音楽体験から伺ったところ、順を追って、少年時代から作曲家へのデビューまでのエピソードがノンストップで語られました。
音楽が豊かな環境
4歳の時に習い事としてヤマハのピアノ教室に通い始めました。同じ頃、母親が趣味でクラシックギターをやっていて、僕もその先生からクラシックギターを習い始めたんです。小学校1年生の時に両方続けるのは大変なので、どっちにするかと聞かれて、僕はピアノの方が苦手で、ギターの方が好きだったんですけど、幼心に辛い方を選んだほうが親が褒めてくれると思って、ピアノを選んで今に至ってます。プロで音楽をやる上で、鍵盤が弾けるというのは有利というか、必要なことなので、あの時にピアノを選んでおいて本当に良かったなと思います。
父親は、オーディオマニアで、自分で木を切ってスピーカーを作ったり、真空管アンプもハンダゴテを持って作ったり、そうやって趣味でオーディオルームを作っちゃう人だったんです。ある時、父親に「そんなにオーディオをいじっているならば、生で音楽を聴きに行けばいいじゃない」って話したことがあるんです。そうしたら、それじゃ意味が無くて、自分が作ったオーディオから良い音が出るのが喜びと言っていました。父親がオーディオの音をチェックするリファレンスのCDがキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』の1曲目。それを僕が大学に入って家を出るまでずっと聞いて来たので、血となり肉となって、僕の音楽のベースになっています。プロではないんですけど、音楽が好きな家族の中で育ちました。
小学1年で初めての作曲。作曲家を志望
小学校に入った時に、ヤマハではJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)というのをやっていて生徒に作曲をさせるんです。普通の音楽教室ならば年に1回か2回ある発表会で既存のクラシックなどを弾かせるところを、ヤマハは小学校1年生からもちろんクラシックの曲はやるんですけど、それプラス、自分のオリジナル曲を作らせて、それを発表会で演奏させるという教育プログラムがありました。それで僕は小学1年から作曲をするようになったんです。僕はクラシックのピアノをあまり真面目に練習するタイプではなかったのですが、自由に音楽を作曲して弾くことが性にあっていて、それが好きで続けました。
光GENJIや中森明菜などその頃に流行っていたポップスもなんとなく聞いたりはしていました。父親がインストゥルメンタルが好きで、ジャズやクラシック、イージーリスニングのレコードがたくさんありました。リチャード・クレイダーマンの王子様みたいなジャケットを見てカッコいいなと思って、憧れたりしたんです。
この頃すでに作曲家になりたいと思っていました。親がNHK大河ドラマが好きで、僕が親の膝の上で観ていた時に、オープニングがすごく印象的でカッコ良くて、作曲家の名前が毛筆のような文字で大きく出るのにすごく憧れていて、いつかこんな仕事ができたら良いなというのをなんとなく感じていました。それで小学生の時に書いた将来の夢には、「作曲家になりたい」って書いていました。
