作家インタビュー

第03回 坂田晃一さん

日本テレビ系のドラマでは『2丁目3番地』(1971)、『3丁目4番地』(1972)、『池中玄太80キロ』(1980/1981/1989ほか)といった大ヒットドラマ、他局でも名作アニメーション『母をたずねて三千里』(1976)、大河ドラマ『おんな太閤記』(1981)や朝ドラ『おしん』(1983)といった国民的作品をはじめ多数のドラマ、映画などで名曲を生み出す坂田晃一さん。
学生時代のエピソードから、ドラマで生まれたヒット曲、劇中の音楽の秘話、さらに近年の舞台音楽の話、作曲家を目指す方のための具体的な指針まで語って頂きました。

幼少から学生時代、作曲家をめざすきっかけ

小学校に入るくらいの時に、ピアノのレッスンを始めました。父親の病気などの理由で3年くらいしかやりませんでしたが、その3年間が大きな下地になりました。それが無ければ作曲家になれなかったかも知れません。

中学でクラシック音楽を聴くのが好きになって、高校に入るとチェロを始めて、合奏部も作って、でも部員は5、6人しかいないので、メンバーが演奏しやすいようにいろんなクラシックの曲をアレンジして譜面を書いていました。それをやっているうちに作曲も面白いと感じるようになって、自分でも曲を作り始めました。その時はチェリストになろうと思い、芸大の先生に相談して、レッスンも受けて、芸大を受験したら受かったんです。

大学に入った後、1年、2年生はチェロを真面目に勉強していたのですが、同時に現代音楽の作曲をやるようになりました。その時は、無調音楽、12音技法というこの当時は前衛的な作曲技法で作曲していたんですが、そうこうするうちにチェロよりも作曲が面白くなりました。大学3年ではチェロのレッスンもサボるようになって、その教授とも折合いが悪くなって(苦笑)「今はチェロだけをしっかりやりなさい」と、お叱りを受けました。でも、作曲も面白いし、指揮も学内でやっていたり、非常に気が多かったです(微笑)。こういう感じでいろいろありましたが、結局チェリストよりも作曲家になろうと思うようになりました。作っていた音楽は無調音楽でしたけど、それでは食えないだろうと。職業としてやるには映画もTVもやらなければダメだろうと考えて、4年になる時には中退を考えて、人づてに聞いた電話番号で、作曲家の山本直純先生に電話をして「弟子にして下さい」と言ったら、心良く引き受けて下さって弟子入りしたんです。

作曲家・山本直純のアシスタント時代

山本直純先生に弟子入りしてから初めて調性音楽というものを作り始めたんです。21歳からでしたが、それまでの現代音楽を作曲していたことなど何の役にも立たなかったんです。調性音楽ということは、調性的な良いメロディーと和声感覚が必要ですから。そういったセンスを磨くのには、山本直純先生の門下に入れたというのは非常に幸運だったと思います。

弟子入りしてからは使いっ走り、電話番、写譜などの下働きをしていました。半年経った頃に、少し曲を書いてみろと言われて、一晩かかって1曲を作曲したのがスタートです。それからだんだん書くようになり、先生のお手伝いをしながら、膨大な数のアレンジをしました。その頃の先生は商業音楽のあらゆるジャンルの仕事をなさっていたので、室内楽的な小編成からジャズのビッグバンドにストリングスや木管も加わったような大きな編成、時には日本フィルハーモニーオーケストラの仕事でフルーケストラの仕事など、編曲のいろんな経験をしました。

先生はレコーディング時には指揮もしていらっしゃいましたが、弟子入りして初期の頃、僕がアレンジした曲を演奏する時になると、先生は僕を呼んで横に座っていろと。それで一度、僕が書いたままを演奏してみるんです。そうするといろいろ問題が出てくるんですね、未熟ですから(微笑)。特に(楽譜に音符を)書き過ぎ、書き込み過ぎというのがあって、それを先生は口頭で整理していくんです。演奏者にこのパートはオクターブ上げて下さいとか、ここのところは(音を出すのを)休みにしたいとか、全部指示をしてもう一度、演奏すると見違えるように良くなるんですね。このようにしてアレンジやオーケストレーションの訓練、レッスンを実地でやらせてもらえたんです。普通はこういう形で出来るってなかなか無いと思うんです。それでも作曲についてはというと、「自分で勉強しろ」とおっしゃってました(微笑)。だから自分で一生懸命に勉強しました。先生は「オレが教えてあげられるのは仕事のやり方だ」とおっしゃっていました。劇伴(劇音楽)というのは作曲にあたっていろんな約束事がありますし、劇伴を作るということはドラマをどのように理解するか、あるいは監督や演出家がどのような意図を持ってその作品を作っているかというのをきちんと理解した上でないと音楽は作れないということですね。そういった音楽以外の理解力を持たなければダメだということの教育も受けましたね。それも先生が仕事していらっしゃる現場をアシスタントとしてついてまわって、打合せも曲を書く時も録音もですから、そうやって仕事のやり方も吸収したということです。

先生は「打合せがちゃんと出来たら仕事は半分出来たと思え。打合せをいい加減にやっちゃダメだ」とおっしゃっていました。直純先生のところでアシスタントを4年半やっていましたけど、それこそ音楽漬けの毎日で、僕が作曲家としてやっていけるようになったのがはその期間、環境があったおかげだと思っています。

日本テレビ系ドラマの初期

日本テレビでの一番最初の仕事は、『日産スター劇場』(1963~1969)という番組です。まだ、山本直純先生の門下にいた頃です。日テレの演出は津田昭さんでした。直純先生は福田陽一郎さんという演出家との仕事が多くて、その下でADをやっていたのが、後に僕とコンビでいろんなドラマをやらせて頂く石橋冠さんでした。他に中島忠夫さんという通称・お兄ちゃんっていう方も演出にいました。後にかずかずの作品を御一緒することになります。

日テレの仕事の初期には、局内に音楽ディレクターの方がいる音楽管理という名称だったと思いますが、専門のセクションがあって、その方と音楽制作の打合せをして、演奏家の編成を決めていきました。録音現場ではそのディレクターが演奏のキュー(始める合図)を出してました。昭和30年代後半まではそうした仕事の進め方であったと思います。そのセクションが無くなってから、映画会社がドラマ制作の下請けをするようになって、テレビ映画(フィルムで撮影したドラマ)が作られる時に、制作費の節約のために、各回の台本に合わせて音楽を作るのではなく、前もって予測でたくさんの劇伴を1回で録音する貯め録りという方法が始まったんです。やがて局制作のドラマでも、映画会社から逆輸入するようにその方法を取り入れるようになりました。作曲家にとっては面白くないシステムになってしまいました(苦笑)。

土曜グランド劇場『2丁目3番地』

(放送期間:1971年1月2日~3月27日)

石橋冠さんとはこのドラマの前にいくつか仕事をさせて頂いていて、どういう音楽を望んでおられるのかが、かなりわかっていました。この時は、ちょうど僕が書きたいと思っていた音楽と、石橋さんからの音楽的な要求がうまく合致して、主題歌や劇伴が出来た記憶があります。

このドラマでは主題歌を作ろうということになって、「赤い鳥」は、当時は日本テレビ音楽にいた飯田則子さんが見つけてきたんじゃないかと、記憶ですが…。作詞の阿久悠さんは、石橋さんか、あるいは当時の日本テレビ音楽の社長だった砂土居政和さんのアイデアで決まっていったのではないかと思います。
しかし、この主題歌「目覚めた時には晴れていた」は、事情があって残念ながらレコード化されませんでした。それで後のドラマ『3丁目4番地』の主題歌を歌った「ビリー・バンバン」がカヴァーしたり、『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』(1976)というドラマで「伝書鳩」がこの曲を歌って主題歌に再び使ったりしていたんです。それが40年以上経って、先だって発売になった僕の作品集『坂田晃一/テレビドラマ・テーマトラックス2』に、「赤い鳥」が歌ったオリジナルのテレビサイズ版が収録されて嬉しく思っています。

『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』の主題歌に再度起用された時も、嬉しかったですけど、その反面、新曲を作っても良かったなと思っていました(微笑)。この曲を再び主題歌にというのは石橋さんのアイデアで、「伝書鳩」の起用は飯田さんだったと思います。日本テレビ音楽の管理楽曲では初期の作品ですね。

土曜グランド劇場『3丁目4番地』

(放送期間:1972年1月8日~同年4月8日)

主題歌「さよならをするために」は、
チャート最高順位1位

(1972年度年間3位)

主演の石坂浩二さんを主題歌の「さよならをするために」の作詞家として起用するというアイデアも石橋さんでした。『2丁目3番地』の続編ですが、その『2丁目3番地』の時の共演がきっかけで石坂浩二さんと浅丘ルリ子さんのカップルが誕生、結婚したので、『3丁目4番地』では、共演者としては起用出来ないな…ということになり、石坂さんが詩を書いているということをきいた石橋さんが、出演出来ないならば主題歌の作詞をしてもらおうと考えたんです。曲を先に作るメロ先でした。この頃は詞先が多かった時代ですが、僕がメロ先が良いと思っていたのは、主題歌のメロディーをドラマの中で多用したかったんです。番組のテーマ(主題)として、劇伴に様々なアレンジで多用出来るメロディーをまず作って、それに詞を付けて主題歌を作るという考え方でした。

明るいドラマでもマイナーのキーで主題のメロディーを

これは重要なポイントなのですが、『2丁目3番地』も『3丁目4番地』もいろんな人間関係が出てきますが、ホームドラマでした。ホームドラマというと普通はメジャーキーの明るめの曲なのに、このドラマはなぜマイナーのキーで作った曲なのかという疑問、意見が当時もあったと思います。僕がホームドラマでもマイナーのメロディーを主題歌や劇伴の主題にしたのは、石橋さんが演出されるホームドラマが明るく展開して喜劇的であっても、その背後にある、人々のペーソス(感情、哀感)もあるでしょうし、人間のふれあいを明るいドラマのままの音楽よりも、少しメランコリックなニュアンスを持った音楽が寄り添うことで、明るさが際立ちますし、心のふれあいをより効果的に音楽として寄り添えるだろうと考えていたんです。それは、石橋さんによる音楽の使い方も非常に巧みであったということもあって、成功したと思っています。

土曜グランド劇場『池中玄太80キロ』

(放送期間:第1シリーズ=1980年4月5日~6月28日、
第2シリーズ=1981年4月4日~8月29日ほか)

第2シリーズ主題歌「もしもピアノが弾けたなら」
第23回日本レコード大賞・金賞、日本作詩大賞受賞

この頃から劇伴と主題歌の作曲家を分ける傾向が出てきました。最初のシリーズは、主題歌は既に「風に抱かれて」が決まっていて、劇伴だけの依頼でした。次のシリーズでは、西田敏行さんが歌う「もしもピアノが弾けたなら」 も書かせて頂きましたが、依頼のお話しは覚えていないですし、僕の方から主題歌も書かせて欲しいというお願いをしたということもないです。自然な流れでそうなったと思います。

この番組の時は、僕の考え方は『3丁目4番地』の時とは少し変わっていて、主題歌は詞先で作りたいと思っていたんです。阿久悠先生の事務所に日テレのスタッフと僕とで出向いて、こういうドラマで主題歌を作りたい、今回は詞先で作らせて頂きたいという話を伝えたら、心良く応じて下さって、あっという間に「もしもピアノが弾けたなら」と「いい夢見ろよ」との2曲の歌詞が出来てきました。阿久悠先生はタイトルを先に決められるそうですね。番組スタッフも僕も2曲を見た時に、タイトルからして「もしもピアノが弾けたなら」の方が主題歌で、「いい夢見ろよ」は挿入歌。曲はそのつもりで作りました。

西田さんは歌がとても上手くて、即興で歌ってしまったり、エルヴィス・プレスリーの歌も上手いと聞きまして、実際に聞いてみようと、作曲に取りかかる前に、スタッフとともに西田さんがステージで歌う店に行ったんです。即興で作る歌も上手くて、音域が広いということもわかって、これは安心して曲も作れるなと思って、西田さんの音域に合わせてアレンジをしました。前もって録ったオケを西田さんに渡して練習して頂いておいてレコーディングに入りました。西田さんは歌えるという自信もおありになって、一回目を歌った時に、少し後ろを伸ばしたりして、自分流にメロディーをいじって歌われたんです。僕は主題歌についてはそういうことが全く必要がないと考えていて、メロディーをキチッと歌って、そこに思いを重ねて下さいと言いました。おこがましいんですけど、僕が歌を入れたカセットテープを渡して、これを聴いて練習してきて下さいとお願いして、後日再びレコーディングをしたんです。それで歌って下さったのが、完成した音源です。さすが西田さんだと思いました。僕の仮歌を聴いて吸収して下さって、素晴らしい仕上がりになりましたから。

「もしもピアノが弾けたなら」が
初期のシングル・レコードではB面だった謎

歌が完成した後、その当時の発売元、CBS・ソニーの編成会議で聴いてもらった結果が、「いい夢見ろよ」がA面だと(微笑)。僕たちはひっくり返るくらい驚いたんです。主題歌の「もしもピアノが弾けたなら」をB面にするということになりました。そして番組がスタートしても全然、歌のヒットに火がつかないんです。それで番組スタッフとCBS・ソニーが会議をして、その後で、シングルのAB面を逆にすることになったんです。その後、大ヒットという結果になりました。

挿入歌もヒットした「鳥の詩」

杉田かおるさんが歌った「鳥の詩」は、『池中玄太80キロ』の2回目のシリーズの時に、石橋冠さんのアイデアで出来たんです。主人公の池中玄太には血がつながらない三姉妹の娘がいて、その末っ子が幼かったので、そういう子にも歌えるような歌を作ろうということでした。玄太が三人の娘がいる女性と結婚するんですが、病気で亡くなってしまって、父娘の関係が始まるんですね。一方、カメラマンの仕事ではあまり評価されないけど、北海道で丹頂鶴を撮ると天下一品という設定で、亡くなった奥さんの名前も鶴子ということで、鳥に対する思い入れ、亡くなった奥さんとの想い出、そういったものを込めて、子供でも歌える童謡的な挿入歌を作ってドラマの中に入れ込みたいというのが石橋さんの考えでした。それで再び阿久悠先生に詞をお願いすると見事な歌詞が出来てきて、曲を付けたという訳です。

石橋さん以外の演出家だったらそういう発想は無かったでしょうね。レコードにはなりませんでしたが、西田敏行さんの歌も録って、ドラマの中ではシーンによって使い分けたのも石橋さんのアイデアだったと思います。

その他、印象深い日テレドラマ

『2丁目3番地』、『3丁目4番地』の次、石橋冠さんとやった浅丘ルリ子さんが主演の『冬物語』(1972)ですね。主題歌がフォー・クローバースの「冬物語」で、これも阿久悠先生が作詞でした。ドラマの最初で原田芳雄さんがピアノの音楽とともに登場して、せつないラヴストーリーでした。浅丘さんも原田さんも音楽がとてもよく乗る、音楽乗りが良い役者ですね。逆に音楽が乗らない役者さんもいましたが(苦笑)、あの2人は音楽を作っていても、オンエアを見るのも楽しみでした。映像に音楽を入れるダビングをするスタジオにもよく出かけていって、選曲についても意見を言わせて頂くことが出来たんです。石橋さんの演出だったし、メロドラマなら僕の真骨頂だと思ってやっていましたので(微笑)。このドラマは映像が残っていないというのが残念です。

もっと以前のドラマですが、これも浅丘ルリ子さんの主演で『90日の恋』(1969)もありましたね。ソニア・ローザが主題歌を歌っているんですが、確かドラマのテーマ曲はインストゥルメンタルでやっていたのですが、この演出は梅谷茂さんで、印象的ですね。『冬物語』の時に石橋さんがロケに局の中継車を使えるようになったと言っていましたから、この時はまだ使えなかったんです。不便な時代でしたが、不便だからこそいろいろと工夫して良いものが生まれるという時代だったと思います。

同じ系列だと読売テレビで、これもまた浅丘ルリ子さんが主演ですが、『新車の中の女』(1976)というのも面白かったですね。プロデューサーや演出家が音楽のオファーのきっかけになるので、浅丘ルリ子さんの作品が多いのは、偶然です(微笑)。

名作劇場『母をたずねて三千里』

(フジテレビ系/放送期間:1976年1月4日~同年12月26日)

実写のドラマや映画とアニメーションとでは音楽作りの発想はかなり違います。実写のドラマや映画は生きた人間が演じていますから、観ている人は表情から内面が汲み取れますが、アニメーションの場合はやはり絵ですから、役者が演じるのとは違って、表情から汲み取れるものは限られます。それを音楽で補足あるいは説明する必要がありました。
実写の場合はまた、役者が演じている状況から音楽は少しズラしたというか、少し外した音楽を付けることで、効果がより生まれるということがありますが、アニメーションはそれが出来ませんから、割と素直に状況を説明する音楽でやっていく必要がありました。作り方が違うわけです。また、音楽は最初に多くの曲を貯め録りしておいて、後から映像に選曲していきますから、選曲に使いやすいということも意識しながら作りました。

もっと昔はラジオドラマというのがあって、それは視覚的なものが何も無い声だけですから、音楽はもっと説明をしなくちゃいけないということがありました。ラジオドラマと実写の映画やドラマの中間にあたる音楽の考え方、作り方がアニメーションにはありましたね。映画とテレビドラマとでももちろん音楽の作り方は違うんですが…。

主題歌「草原のマルコ」の作り方

日本アニメーションの深沢一夫さんというプロデューサーが作詞をなさって、詞を先に作って頂いたんです。大杉久美子が歌ったメロディーは、マルコがお母さんを探すためにアルゼンチンに渡って、そこからアンデスに向かう設定なので、前半のメロディーはアルゼンチンを中心としたところでよく使われるミロンガというリズムにしました。後半はアンデスのカルネバリートというお祭りのリズムを使って作曲しました。詞もそういうふうに作りやすい内容でした。

グラシェラ・スサーナというかつて日本に来てた歌手がいたんですが、彼女が僕が作った「さよならをするために」をギターの弾き語りで歌っていたんです。そのリズムに聞き覚えがあったので、「そのリズムはなんていうの?」と聞いてみたら「ミロンガ」だと。僕はアンデス音楽が好きでいろいろ調べていて、ミロンガというリズムがそこにあったんですね。

高畑勲監督とのエピソード

高畑勲監督は、エンディング・テーマの「かあさんおはよう」の作詞もなさってますが、今振り返ってみて印象深いのは劇伴の打合せです。最初の貯め録りした曲が足りなくなってから追加録音を2回くらいしましたが、その時も打合せして決めていきました。高畑勲監督はなかなか注文が厳しくて(苦笑)。台本は何話分かは受け取って読むんですが、貯め録りですから、予測で作る音楽なんです。予測で作るにしては監督の注文が細かくて、これはどうやったらいいんだろうとかちょっと悩んだことがありました。打合せでもかなり議論したことを覚えています。

朝の連続テレビ小説『おしん』

(NHK/放送期間:1983年4月4日~1984年3月31日)

大河ドラマ『おんな太閤記』(1981)など橋田壽賀子さんの作品が多いのは、NHKのドラマ部の中で、脚本家との関係が出来るグループ的な色分けがあるような気がしたんですけど、僕も橋田さんと仕事をする方との仕事が多くて、結果的に橋田脚本が多くなったのだと思います。

朝ドラは以前は1年間の放送でしたが、そのうち今のように半年間になっていました。この『おしん』は、NHKの放送開始30周年記念作として1年間放送するということでした。
この当時、朝ドラはNHKである程度、仕事の実績を積んだ若手の作曲家を起用するのが不文律の原則だったようです。なので、僕は以前『雲のじゅうたん』(1976)というのをやったので、朝ドラの仕事はもう無いかなと思っていましたが、『おしん』のオファーが来ました。他にも朝ドラの音楽を2作やっている方がいたので、別に1作だけということではないんだなと。なぜ僕に白羽の矢が立ったのかはよく覚えていません。この頃は、テーマのデモを前もって作ってスタッフに聴いてもらうということはなかったんです。でもこの『おしん』は1年間、月曜から土曜までの毎日、朝と昼に放送があるので、繰り返しに耐える曲を作らなければいけないと思って、僕としては、鼻歌で歌えるほど簡単ではないメロディーにしようというイメージを持っていました(微笑)。そうすることで1年間の放送を持たせられるんじゃないかと考えたんです。そして、1曲作ってみた後に、もう1曲作ってみようと思って、2曲出来ちゃったんです。僕の中では最終的にテーマ曲になったものの方が良いと思っていたんですが、出来た2曲をNHKに持っていってスタッフに聴いてもらいました。そこでチーフ・プロデューサーの岡本由紀子さんが「こっちですね」とおっしゃったものがテーマ曲に決まりました。こういうことをやったのは『おしん』が初めてです。

当時のNHKはまだ、民放と違って劇伴の制作を毎週やっていたんです。打合せと録音が毎週です。他の番組ではすでに収録した映像のビデオを受け取って、見て確認しながら作曲が出来るようにはなっていたのですが、朝ドラだけは、たぶん効率を考えてのことだと思いますが、この方法ではありませんでした。スタッフとの打合せで台本を見ながらどこに音楽を入れるかを決めて、演出家からその場面のイメージをお聞きして、台本を見ながら映像を予測して作曲、録音をします。その音楽をドラマの収録の時にスタジオで流しながら役者の演技を一緒に撮る、そういうシステムでした。役者にも音楽が聞こえちゃうんですね。
打合せの段階では、ここは35秒のエンディング(ラストシーン)ということで曲を作って、実際に撮ってみたらそのシーンが長くなって、音楽の長さが足りないということになって、音効のスタッフが音楽のテープを編集して曲を伸ばしたり、逆に短くなったから音楽テープを切ったりしていたんです。
ドラマを収録するビデオテープの音声トラックが、今みたいにマルチではなく1つしかなかったので、撮影しながら音楽も台詞や効果音も、バランスを調整しながら一緒に入れていました。そういう作り方だったので、総集編を作る時には、そのつなぎによって音楽がブツ切りになっちゃうんです。音楽だけミックスをし直そうという話も出ましたが、音楽テープの管理が悪く、紛失状態でどこにもなかったんです。後には出てきましたが(苦笑)。

僕としては特に最初は映像のかけらも見たことがないままで音楽を作っていましたね。こういったケースも僕が山本直純先生の弟子だった時から、台本だけで音楽を作るということを見ていたので、その点は苦にならなかったです。でも、大河の朝ドラも1年間の打合せと録音の連続に息切れしそうにはなりました(苦笑)。

大学教授として作曲を教えていた時の楽しさと難しさ

尚美学園大学芸術情報学部・音楽表現学科・作曲コースで教えることになった頃は、当時の学生との年齢差は40年でした。十年一昔ということを考えると、40年というのはそうとうな世代間格差があるかなと危惧していたのですが、コミュニケーションが割と出来たので、心配していたほどではなかったんです。16年間教えていましたが、7、8年経った頃から平成生まれの学生が入ってきて、コミュニケーションをとるのも難しいぞって思うようになりました。なので最初の頃に教えた学生の印象が強く残っています。

僕が教えていたのは作曲の中でも商業音楽、特にテレビドラマや映画の音楽を中心に教えていました。僕の学生時代と圧倒的に違うのは、デジタルな時代であり、勉強のやり方もいろんな方法が出来ているということです。シンセサイザーやサンプラー、そうした音源を使ってコンピュータで打込みをすることができるようになっていました。なので、学生が自分で作った音楽を僕のところに持ってきて客観的に聴くことが出来ます。それを聴きながら、あるいは楽譜の作成ソフトも参照しながら具体的にこの音はなぜここでこうなの?などというのを訊きやすいし、これをこう変えたらどうなる?ということもその場でできるという非常に作曲を勉強する環境としては、我々の学生時代とは各段に便利に勉強しやすくなっているのを感じました。学生もそういった方法を熱心に取り入れながらやっていました。でも、勉強の方法には男女で傾向の違いが見受けられて、男子生徒はコンピュータが得意で、女子生徒は、絶対やりたくないという人もいたくらい苦手な人が多かったです。苦手なことは無理にさせられませんでしたが(苦笑)反対にせっかくある道具は使わなければと、一生懸命にやっている女子生徒もいました。

昔はある音楽が聞こえてきたら、このコード進行はどうなっているんだろう?って知りたくなった時に、楽譜が売っている訳ではなかったので、自分で懸命に耳コピーをして勉強しました。今の学生でもあえて耳コピーをする人もいましたけど、ちょっとWeb上を検索すると、なんらかの楽譜があるんですね。自分で努力して耳コピーするということがなくなってしまった弊害もあります。耳コピーをするということはいろんな鍛錬になるのです。

作曲を教えるのは非常に難しいですね。理論的にこれはおかしいとか、これはきちんと出来ているとか、このコード進行よりこっちが良いんじゃないの?という提示は出来ますが、音楽をどうやって発想するかというのはなかなか教えられないことなんですね。これは僕らも昔からそうでしたけど、古くからある音楽を模倣して作ってみるということをいろんな形でやるうちに、ゼロから自分で発想する力が生まれて、実力をつけるのに効果的な方法でもあるのです。なのでそういったことも学生にやらせました。では、どうやって本当に発想するかという根本を教えるのはなかなか難しいことだと感じました。学生個々のそれまでの音楽歴、音楽経験にもよっても違ってきますので。

近年の音楽活動、再びチェロを奏でる
劇『ワルツ~カミーユ・クローデルに捧ぐ~』

30年近く全く触ってもいなかったチェロを再開したんですが、最初は惨憺たるものでした(苦笑)。学生時代に弾いていた何分の一も弾けないんです。その後、必死で勉強して少し取り戻した感じですね。チェロはまだアマチュアだと思っていまして、新交響楽団というアマチュアのオーケストラに、プロの作曲家としてではなく、アマチュアのチェロ奏者として参加しています。自治体の援助も全く得ないオーケストラで、今は亡き作曲家の芥川也寸志さんが結成・指導された、アマチュアの中では一番上手いと言われているオーケストラです。毎週、プロより厳しい練習があって、入るにもオーディションがありました。団員の中には、坂田先生と呼んで下さる方もいたんですが、この中では、坂田さんで良いですとお願いしました。その方が、趣味として気持ちよく出来ますから。指揮者はプロの方が来るので、このオーケストラでいろんな指揮者の方に出会えました。純粋に趣味としてやっています。

趣味だけのはずのチェロを仕事で弾くことになってしまったのが、ロダンの没後100年記念公演として2017年に上演された劇『ワルツ~カミーユ・クローデルに捧ぐ~』です。生で音楽を演奏する朗読劇です。当初は作曲の仕事でお引き受けしました。生演奏の楽器編成はクラシックでいうピアノ・トリオ(ピアノ、バイオリン、チェロ)でなんとか出来るということでしたが、予算的に厳しく、演奏者1人ぶんを節約出来るので(苦笑)、僕がチェロも弾くことになりました。ステージの進行に合わせて演奏を始めるきっかけの合図も出来るし、その点で効率も良いと。そういう理由で図々しくも自分で弾いてしまったというわけです。チェロが朗読劇に使う楽器としても合っていました。

この朗読劇は以前からあったのですが、当初は僕の曲や歌は無かったんです。ある時、プロデューサーの方が、以前聴いたことがある音楽がこの企画には合うと考えて、でも作曲者はわからずにいたんです。仕事仲間にその曲を聴かせてみたところ、その仕事仲間は以前僕と仕事をしたことがあったので、すぐに「坂田さんの音楽だ」と判り、連絡を頂いたことが、この劇に関わるきっかけだったんです。

これがいろんな形で発展して、先日リリースした僕の作品集『坂田晃一/テレビドラマ・テーマトラックス2』では、主題歌「カミーユのワルツ」と挿入歌の「MITASORA」 をレコーディングすることになり、僕も舞台のままチェロを弾きました。

音楽以外の趣味は、趣味の域を超えた乗馬

40代に入って『池中玄太80キロ』の仕事が終わって、それまで忙しかったのがちょっと落ち着いた頃に、少し息抜きもしたいなと思ったのと、そろそろ運動もしなくちゃと考えていたところに、知人から乗馬を勧められました。八ヶ岳のふもとの小淵沢に乗馬クラブがいろいろあるので紹介すると言われて行ってみたんです。後に馬術をやるようになるんですが、最初は怖くてなかなか楽しめませんでした。馬が速歩(はやあし)で走る時に下から突き上げられるので、座っているのが難しいんです。それが出来るようになったら一人前だと言われました。
なかなか出来なかったのが悔しくて、毎週、小淵沢に車を運転して通って、朝から晩まで馬に乗ってました。1年くらいすると、他の人の4年分は練習した感じだったので、かなり乗れるようになり、面白くなってきました(微笑)。そのうち、乗馬クラブから自馬(自分の馬)を持ちませんかと言われて持つようになりました。自馬を持つようになると、その馬で競技会にも出るようになって、山梨県大会などに出るようになって、そこで優勝もしました。さらに馬術を始めるようになって、馬術競技も出るようになって、3年か4年目で今度は日本馬術連盟のインストラクターの資格もとれたんです。それくらいにのめり込みました。
落馬もしょっちゅうありましたが、そのうち落ち方も慣れていったんですが、慣れた頃に、障害物競走の障害物に不備があって、骨折して3ヵ月入院したこともあります。
自馬はもう持っていませんが、今も小淵沢に行けば乗っています。実は乗馬に通ううちに、通うのが面倒になって、乗馬クラブの近所に家を建ててしまって、住民票も山梨県に移していた時期もありました。学生の頃からそうだったように、僕は何をやっても趣味の域を超えちゃうんですね(微笑)。

作曲家を目指す人にメッセージ

プロの作曲家になって生活するのは難しい部分もあると思います。学生に教えていた頃はダブルキャリア、あるいはマルチキャリアを勧めていました。
例えば音大で勉強してもすぐに作曲家にはなれない訳で、学校で勉強したことは、それはそれとしてとっておいて、卒業したら安定した職業に就く。しかもそれには条件があって、毎日が残業で疲れて、帰ってきたら何も出来なくて寝るしかなくなるようではダメなんですけど、アフターファイブにある程度の余裕があって、土日はちゃんと休めて作曲が出来る環境を獲得して、作曲家として活動していくという形です。
これは作曲だけでなく、他の専門職にも言えることです。そうやって成功した卒業生もいます。こういったケースは男性よりも女性がうまくいくことが多いようです。会社の仕事とうまく折合いをつけながら、作曲もしてテレビドラマの主題歌に採用された事例もあります。しかも配信でベスト10に入りました。その卒業生はダブルキャリアをうまくやりましたね。
フリーランスで頑張る方法もありますけど、最初はなかなか厳しいと思います。

取材日:2018年12月3日
日本テレビ音楽にて
聞き手:高島幹雄




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坂田晃一 プロフィール

1942年、東京生まれ。東京芸術大学(チェロ専攻)を経て、作曲を山本直純氏に作曲と指揮を師事、あらゆるジャンルの作曲について徹底的な訓練を受ける。

1965年、箏奏者の野坂恵子さんから委嘱された「箏と室内オーケストラのための小協奏曲」を作曲。上野文化会館小ホールで行われた「野坂恵子リサイタル」において、自身の指揮で初演、作曲家デビューを果たす。

1965年よりテレビドラマ、映画、レコード、舞台、CM等、幅広い作曲活動を展開、その叙情的且つロマンティシズム溢れる曲調と斬新な手法が注目を集める。1971年には初のレコード作品「さよならをするために」が4週連続でヒット・チャート1位を記録する。テレビドラマでは、数々のヒット作品や注目作品を手がける。

1984年から編曲家としても、由紀さおり・安田祥子姉妹のCD、コンサートの編曲にその手腕を発揮し、サウンド・プロデューサーとして姉妹の音楽世界を作り上げることにも貢献している。

90年代から、TEPCOホーム・コンサート(東京フィルハーモニー)、日生劇場・音楽ドラマ「シューベルト」(神奈川フィルハーモニー)、由紀・安田姉妹の「2000回記念コンサート」(NIPPON SYMPHONY)等で、音楽監督として指揮活動も行っている。

1993年から2001年まで、八ヶ岳南麓のリゾートホテル「リゾナーレ小淵沢」(開発時からオープン3年目まで代表取締役を務める)で開催された「リゾナーレ音楽祭」のプロデューサーを務めた。

2000年4月より、尚美学園大学 芸術情報学部 音楽表現学科 作曲コース主任教授、並びに2006年より同大学院教授、2008年より研究科長、2010年より学科長、2013年4月から尚美総合芸術センター長。2016年3月、尚美学園大学を退職、同大学名誉教授。

2016年より、「ワルツ~カミーユ・クローデルに捧ぐ」の公演に音楽監督として参加、主題歌・挿入歌を作曲、公演ではチェロも弾いている。

主な作品

■主題歌
「もしもピアノが弾けたなら」(西田敏行/1981『池中玄太80キロ』)、「さよならをするために」(ビリーバンバン/1972『3丁目4番地』)、「さよならの夏~コクリコ坂から~」(手嶌 葵/2011 スタジオジブリ『コクリコ坂から』)、ほか多数

■挿入歌
「鳥の歌」(杉田かおる/1981『池中玄太80キロ』)、他、多数

■NHK大河ドラマ
『おんな太閤記』(1981)、『いのち』(1986)、『春日局』(1989)

■NHKドラマ
朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』(1976)、『おしん』(1983)、『チョっちゃん』(1987)、銀河テレビ小説『わらの女』(1977)他多数
金曜時代劇『茂七の事件簿 ふしぎ草紙』(2001〜2004/3シリーズ)、ほか多数

■民放テレビドラマ
日本テレビ系『3丁目4番地』(1972)、『池中玄太80キロ』(1980〜1989/3シリーズ)
テレビ朝日系『家政婦は見た!』(1983〜2008/『土曜ワイド劇場』内全26作+TVシリーズ)、『松本清張作家活動40年記念 霧の旗』(1991/『土曜ワイド劇場』内)、『菊次郎とさき』(2001〜2007/スペシャル1作品+3シリーズ)、『松本清張 点と線』(2007/スペシャル2夜連続放送)
フジテレビ系『松本清張スペシャル 霧の旗』(1997)、ほか多数

■アニメーション
『母をたずねて三千里』(1976/フジテレビ系)、『南の虹のルーシー』(1982/フジテレビ系)、『青春アニメ全集』(1986/日本テレビ系)、他

■映画
「無頼」シリーズ(1968/日活/4作目『無頼 人斬り五郎』から担当)、『ハナ肇の一発大冒険』(1968/松竹)、東映『日本一短い「母」への手紙』(1995/東映)、『佐賀のがばいばあちゃん』(2006/映画「佐賀のがばいばあちゃん」製作委員会)ほか多数

■コンサートプロデュース
「リゾナーレ高原音楽祭」、ほか多数

■純音楽作品
合唱組曲「賢治の風景」ほか