作家インタビュー

坂田晃一さんインタビュー

坂田晃一

日本テレビ系のドラマでは『2丁目3番地』(1971)、『3丁目4番地』(1972)、『池中玄太80キロ』(1980/1981/1989ほか)といった大ヒットドラマ、他局でも名作アニメーション『母をたずねて三千里』(1976)、大河ドラマ『おんな太閤記』(1981)や朝ドラ『おしん』(1983)といった国民的作品をはじめ多数のドラマ、映画などで名曲を生み出す坂田晃一さん。
学生時代のエピソードから、ドラマで生まれたヒット曲、劇中の音楽の秘話、さらに近年の舞台音楽の話、作曲家を目指す方のための具体的な指針まで語って頂きました。

幼少から学生時代、作曲家をめざすきっかけ

小学校に入るくらいの時に、ピアノのレッスンを始めました。父親の病気などの理由で3年くらいしかやりませんでしたが、その3年間が大きな下地になりました。それが無ければ作曲家になれなかったかも知れません。

中学でクラシック音楽を聴くのが好きになって、高校に入るとチェロを始めて、合奏部も作って、でも部員は5、6人しかいないので、メンバーが演奏しやすいようにいろんなクラシックの曲をアレンジして譜面を書いていました。それをやっているうちに作曲も面白いと感じるようになって、自分でも曲を作り始めました。その時はチェリストになろうと思い、芸大の先生に相談して、レッスンも受けて、芸大を受験したら受かったんです。

大学に入った後、1年、2年生はチェロを真面目に勉強していたのですが、同時に現代音楽の作曲をやるようになりました。その時は、無調音楽、12音技法というこの当時は前衛的な作曲技法で作曲していたんですが、そうこうするうちにチェロよりも作曲が面白くなりました。大学3年ではチェロのレッスンもサボるようになって、その教授とも折合いが悪くなって(苦笑)「今はチェロだけをしっかりやりなさい」と、お叱りを受けました。でも、作曲も面白いし、指揮も学内でやっていたり、非常に気が多かったです(微笑)。こういう感じでいろいろありましたが、結局チェリストよりも作曲家になろうと思うようになりました。作っていた音楽は無調音楽でしたけど、それでは食えないだろうと。職業としてやるには映画もTVもやらなければダメだろうと考えて、4年になる時には中退を考えて、人づてに聞いた電話番号で、作曲家の山本直純先生に電話をして「弟子にして下さい」と言ったら、心良く引き受けて下さって弟子入りしたんです。

作曲家・山本直純のアシスタント時代

山本直純先生に弟子入りしてから初めて調性音楽というものを作り始めたんです。21歳からでしたが、それまでの現代音楽を作曲していたことなど何の役にも立たなかったんです。調性音楽ということは、調性的な良いメロディーと和声感覚が必要ですから。そういったセンスを磨くのには、山本直純先生の門下に入れたというのは非常に幸運だったと思います。

弟子入りしてからは使いっ走り、電話番、写譜などの下働きをしていました。半年経った頃に、少し曲を書いてみろと言われて、一晩かかって1曲を作曲したのがスタートです。それからだんだん書くようになり、先生のお手伝いをしながら、膨大な数のアレンジをしました。その頃の先生は商業音楽のあらゆるジャンルの仕事をなさっていたので、室内楽的な小編成からジャズのビッグバンドにストリングスや木管も加わったような大きな編成、時には日本フィルハーモニーオーケストラの仕事でフルーケストラの仕事など、編曲のいろんな経験をしました。

先生はレコーディング時には指揮もしていらっしゃいましたが、弟子入りして初期の頃、僕がアレンジした曲を演奏する時になると、先生は僕を呼んで横に座っていろと。それで一度、僕が書いたままを演奏してみるんです。そうするといろいろ問題が出てくるんですね、未熟ですから(微笑)。特に(楽譜に音符を)書き過ぎ、書き込み過ぎというのがあって、それを先生は口頭で整理していくんです。演奏者にこのパートはオクターブ上げて下さいとか、ここのところは(音を出すのを)休みにしたいとか、全部指示をしてもう一度、演奏すると見違えるように良くなるんですね。このようにしてアレンジやオーケストレーションの訓練、レッスンを実地でやらせてもらえたんです。普通はこういう形で出来るってなかなか無いと思うんです。それでも作曲についてはというと、「自分で勉強しろ」とおっしゃってました(微笑)。だから自分で一生懸命に勉強しました。先生は「オレが教えてあげられるのは仕事のやり方だ」とおっしゃっていました。劇伴(劇音楽)というのは作曲にあたっていろんな約束事がありますし、劇伴を作るということはドラマをどのように理解するか、あるいは監督や演出家がどのような意図を持ってその作品を作っているかというのをきちんと理解した上でないと音楽は作れないということですね。そういった音楽以外の理解力を持たなければダメだということの教育も受けましたね。それも先生が仕事していらっしゃる現場をアシスタントとしてついてまわって、打合せも曲を書く時も録音もですから、そうやって仕事のやり方も吸収したということです。

先生は「打合せがちゃんと出来たら仕事は半分出来たと思え。打合せをいい加減にやっちゃダメだ」とおっしゃっていました。直純先生のところでアシスタントを4年半やっていましたけど、それこそ音楽漬けの毎日で、僕が作曲家としてやっていけるようになったのがはその期間、環境があったおかげだと思っています。

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