Ken Araiさんインタビュー

日本テレビ系作品のサウンドトラックでは、「日曜ドラマ」枠の『トドメの接吻』(2018)や、今も支持されているアニメーション『寄生獣 セイの格率』などの音楽を手がけているKen Araiさん。
アーティストとしてのデビュー、レーベル・スタッフなどを経て、映像のサウンドトラックまでの異色の経歴は、人と人との出会いがもたらしたものです。
ギターとの出会い、学生時代のエピソード、アーティストのプロデュース、「a la i.」名義による自身のアーティスト活動、 DJの側面、サウンドトラックの音楽制作エピソードなどを語って頂きました。
ギターとの出会い~ギタリスト志望
僕はギターでメシを食べられればと思っていたんです。子供の頃からさかのぼってお話しますと、父親はサラリーマンでエンジニア、母親は服飾関係で両親共に手先が器用なんですけど、家族に音楽的素養がある人は誰もいなかったんです。80年代の高校生なので、友達と遊びながらFMの番組をエアチェックしては、カセットテープに録って音楽を聴いていました。
群馬の高崎に住んでいた中学生時代。その頃は身長が低くて華奢だったことからいじめられたり、いわゆる帰宅部で、何をやっても長続きしなかったんです。
義務教育が終わると初めて自分で学校も含めチョイスできるので、一生懸命に勉強して、そこそこの高校に入学できました。それと同時に高校デビューというかエレキギターを買ったんです。初めて触った瞬間にこれだ!と思い、そこから音楽にのめり込んでいきました。手先が器用な両親の良いところを受け継いだのか、手がすごく良く動いて、早弾きなどもすぐにできるようになりました。学校にほぼ行かなくなって、毎日ギターを弾きながら、世界一のギタリストになりたいと思っていたんです。高校生くらいだと大したことをやっていなくても早弾きができればモテてたりしましたね(笑)。ブルースやロックのペンタトニック的なフレーズではなくて、メタルの超早弾きで。当時はまだネット時代ではなかったので、耳コピの意味も知らず、チューニングもどうやったら良いのかということすら情報がなかったんです。バンドスコアを買ってもあの頃は採譜の精度が低い本もあって、弾いてみたら音が違うとか(笑)、とにかく自分で覚えていきましたね。
当時はBOØWY、レベッカ、BUCK-TICKといったビート系バンドが人気でしたが、僕はそっちの系統には行かないで、ジャパメタのLOUDNESSの曲を弾いていたりしました。LAメタルにもハマりましたね。バンドを組み、ギターにのめり込んでいるうちに高校3年になったのですが、いろいろやっちゃっていたんで…(笑)父親から、”信頼を回復するなら大学に行かなくちゃダメだ”と言われ。ギターどころか音楽を聴くこと自体も取り上げられました。だから受験勉強を必死でやったんです。音楽を取り戻すために。
外語大時代~音楽学校~デビュー
必死で勉強して、千葉の柏にある全寮制の外語大に合格。初めて親元を離れることができました。勉強する気はなく、ギタリストになるために上京したいとずっと思っていたので、ギターを2本かつぎ、入学したんです。そこでアメリカ人留学生の女の子と運命的に出会い、恋に落ち(笑)結婚しようと決意。それで大学1年から2年になる春休みに、ロスに帰っているその子に会いに行ったんです。もちろんギターも持って渡米です。でも…よくあるじゃないですか? 行って再会した瞬間「あー、これはもうダメだ」という感じが伝わってきて…。アメリカで一人、ギターを持って、さあどうしよう?と。その後もしばらく、そのままロスにいたんです。当時から有名だったバークレー音楽大学に入学したいとも思ったんですけど、なかなか難しくて結局帰国しました。
大学生時代は、メタルじゃモテないからと(笑)、IQ高めのフュージョンやジャズなど、テクニカルな音楽にハマりました。先輩に教わりながらジャズ研にも入って、ビッグバンドもやりましたね。大学卒業の頃はバブルが弾けた後でしたが、まだ就職難ではなくて、周りの友達はみんな就職していました。でも僕はどうしてもプロ・ギタリスト(セッション・ギタリスト……スタジオ・ミュージシャン)になりたかったので、渋谷にあるアン・ミュージック・スクールという音楽学校に入学しました。90年代序盤ですね。そこで2年間、譜面やコード、音楽理論全般を勉強したんです。
音楽学校に入り、そこで初めて気づいたことがあって、それはライバルの多さでした。ギタリストとして明らかにレベルが違う人たちに初めて出会い、2年間学び卒業した時には24歳。本当はプロのギタリストとしてどこかに雇ってもらいたかったんですが、自分でも無理だと気づいていました。そんな頃、ちょうど流行りの波でアシッドジャズが来ていたんです。ハウスとかクラブミュージック…ダンスミュージックをベースにしたジャジーな歌モノ。そういう波ですね。当時、大学時代の後輩の女の子とユニットをずっとやっていて、(後々、その子とデビューすることになるんですけど) ハードサンプラーを買い、自分で打ち込みをやり、トラック・メイクをして、ヴォーカルを入れて、そこにギターを入れるという作り方を始めました。それが、2003年にデビューするKaori Okanoとのユニット「transluv」だったんですけど、1stアルバムを出して、すぐに解散。
でもそこから、自分で全てを完結させる今の音楽制作スタイルの大元ができたんです。
