作家インタビュー

林哲司さんインタビュー

林哲司

80年代に杉山清貴&オメガトライブ、菊池桃子のプロジェクトで大ヒット・シングルからアルバムまでクリエイトしながら、杏里「悲しみがとまらない」、中森明菜「北ウイング」、チャート1位獲得の原田知世「天国にいちばん近い島」などのヒット曲を送り出した作曲家・林哲司さん。仕事的なジレンマを感じた70年代の話、2020年に突如起きた松原みき「真夜中のドア~Stay With Me」などの再評価に対する感覚、そして、コロナ禍の中でリリースした最新プロデュース作品まで、今感じることを中心にお話を伺いました。

アーティストとしてのデビューから

僕の場合は、最初から作曲家を目指していたのではなくて、気がついたら引力で作曲家のほうに引っ張られていた感じですね。アマチュア時代から自分で曲を作りながら、アーティストとしてやっていきたいという考えが強かったんです。ヤマハのポプコンの前身の作曲コンクールというのがあって、その頃に知り合ったのが後に音楽業界で活躍する萩田光雄さん、船山基紀さん、佐藤健さんでした。

佐藤健さんとは、増尾元章さん、それに今の東京キューバンボーイズのリーダー見砂和照さんと僕の4人で「オレンジ」というバンドを作って、それぞれソロアルバムを出しながら、今でいうユニットとしてステージもやっていました。僕のデビューアルバム『BRUGES(ブルージェ)』(1973年/ポリドール)のバックもやってもらいました。こうした活動がプロとしてのデビューだったんです。

うまくいけばそのままアーティストとして活動していくんですけど、自分が思い描いていた世界と現実というのは大きな差がありました。その当時の音楽シーンは歌謡曲、演歌がメインストリームでしたから、ニューミュージックという言葉がユーミン(のデビュー)あたりから出てきて、我々もその一連のグループとして位置づけられていましたね。新しい音楽はまだ始まったばかりみたいな状況でした。

アレンジャーとしての仕事が主流の中で

僕はアーティストとしてやっていくと同時に、機会があれば作品を発表したいという思いがありました。小椋佳さんや井上陽水さんのプロデューサーだった多賀英典さん(キティ・ミュージック・コーポレーションを設立)が、僕をアーティストとして以上に、作家(作・編曲家)としての側面に目をむけてくれて、「自分の作品を書きながらアレンジをやってみないか?」ということで、亀渕友香さんのアルバムに作品を提供したんです(1974年/亀渕友香『Touch Me, Yuka』に収録「積木の部屋」)。それでキティ・ミュージックに所属する作家第1号になりました。その後に所属したのが来生たかおさんです。来生さんが作曲して僕が編曲をするというスタジオもありました。来生たかおさんはアーティストとしてその後デビューするんですけど、その頃は多賀さんから熟成期間として勉強しなさいということで、他のアーティストへの作曲をしていました。僕自身もその頃はキティ・ミュージックのアーティストがレコードを出す時の手伝いをすることがありました。井上陽水さんがデモテープを録る時にピアノを弾いたりしたこともありました。そのうちだんだん僕が作った曲が採用されだすんです。

多賀英典さんというプロデューサーとしてのブランディングがあると、周りの人の見方が変わってきて、こいつを使ってみようかなという気になってもらえたんです。そういう時に筒美京平さんの方からアレンジの話がありました。萩田光雄さんはいち早く京平先生の門をくぐっていたんです。その後、僕も呼ばれて南沙織さんの曲(1975年「ひとねむり」など)をアレンジしました。

少しずつですけど、音楽業界の中で自分の仕事ができるようになって、それでも曲を書く以上にアレンジの仕事の方が主流だった時期があるんですね。だから、自分が作曲家として、自分が思うような作品を提供できるようになるまで、アレンジャーなのか作曲家なのかはっきりしないまま、音楽業界に携わりながら生活はできている状況が10年くらい続いたんです。

でもその間には、イギリスのジグソーに提供した曲(1977年「If I Have To Go Away」)が海外でヒットするということもありましたから、自分の作品に対しての自信というものはなんとなく持ってはいました。

なぜ作曲家以前にアレンジャーとして起用されたかというと、歌謡曲のメロディーに対するアレンジが、ファッションでいう生地素材に対するデザインだとすると、そういうものはどんどん新しく変化していく。主軸たるメロディーというのは、わかりやすい日本の流行歌メロディーで踏襲されているものが根強くあったからかもしれません。

その頃は、ポップス系というとユーミンを筆頭にニューミュージック系のアーティストとかバンドのことをいう位置感でしかなかったんです。でもそういう人たちは作曲は自分でできちゃうから、僕ら職業作家としてやっている者が作品を提供できる場面がどうしても歌謡曲寄りになっていってしまいました。といっても、歌謡曲の世界にはベテランの作曲家たちが充分にいるわけだから、その中に新人の作家が新しい感性で作品を斬り込んでいこう思っても、レコード会社や音楽制作会社などのディレクターがよっぽど新しい感性を持っていないとなかなか使ってくれないというジレンマもずっとあったような気がします。

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