松井五郎さんインタビュー

80年代序盤に作詞家としてデビューし、現在もなお、新たな作品を作り続けている作詞家の松井五郎さん。ジャンルやアーティストも幅広く、また携わったアーティストとの繋がりも深い。
この作家インタビューでは、デビューのきっかけ、アーティストを厳選したさまざまなエピソード、日本テレビ音楽の管理楽曲ではなくても伺ってみたいヒット曲の秘話を語って頂きました。 また、作詞家を志望する人も必読のアドバイスも伺っています。
作詞家になったきっかけ
僕の場合は、作詞家になったというわけではなくて、作詞家にさせてもらったんだと思います。
70年代にフォークソングの洗礼を受けて、自分で詞を書いて、ギターを弾いて歌うことを始めました。コンテストに応募もしていたのですが、僕の実力では弾き語りだと難しいかなと思ってバンドを組んだんです。そして、ヤマハのポピュラーソングコンテスト(以下、ポプコン)に出場するようになりました。
ポプコンにエントリーするようになって何度目かに、後に杉山清貴&オメガトライブになるきゅうてぃぱんちょすや、根本要君のスターダスト・レビューの前進のバンド、そして僕らのバンドが、つま恋の本選会に行かせてもらったんです。その大会ではクリスタルキングの「大都会」がグランプリを獲って、根本君たちのバンドは優秀曲賞だったんですけど、杉山君たちと僕らは惨敗して帰ってきました。
結局、僕らのバンドは解散することになって、これからどうしようかと途方に暮れていたんです。そんな時、ヴォーカリストとしての杉山君に憧れていたので、杉山君に「詞を書かせてくれないか?」と声をかけさせてもらったんです。そして、杉山君と一緒に作った曲「乗り遅れた747」で、またポプコンつま恋の本選会に行くことになりました。結果的にその年も選には漏れてしまいましたが、たまたま僕の詞を見てくれていたヤマハの山里さんというプロデューサーがチャゲ&飛鳥の2作目のアルバムの制作に入っていて、「チャゲと組んで詞を書いてみないか?」と声をかけてくれたんです。それが、作詞家としての僕のスタートになりました。本当に奇跡のような出来事でした。
作詞家デビューのアーティスト
チャゲ&飛鳥(CHAGE and ASKA)
作詞家としてのデビューになったセカンドアルバムの『熱風』(1981)では、タイトル・チューンである「熱風」が飛鳥涼の曲で、詞を書かせてもらいましたが、殆どの曲がチャゲとのコンビでした。アルバムの後にリリースされた「万里の河」の次のシングル「放浪人(TABIBITO)」がチャゲの作曲で、これがシングルの作詞では初めての曲です。作詞家としてはラッキーなスタートでした。その3年後にチャゲと共作で詞を書いた石川優子とチャゲの「ふたりの愛ランド」(1984)が大ヒットして、それと同じ年に日本語詞を書いたMIEさん(元ピンク・レディー)の「NEVER」もあって、この2曲でオリコンのチャートに初めて僕の名前が載ったんです。
安全地帯とのエピソード
安全地帯とは最初事務所を通して依頼がありました。なぜ僕だったかということについては、だいぶ後になってから聞いた話があります。1983年に小室哲哉君と木根尚登君がプロデュースしたSERIKA with DOGというバンドのアルバム『CAUTION』に詞を書いたんです。それを安全地帯のディレクターが見て面白いと思ってくれたのと、玉置浩二と年齢が近いということもあって僕に、ということになったんだそうです。
最初に書いたのが「マスカレード」という曲だったんですが、それを書く時に頂いたカセットテープにセカンド・アルバム『安全地帯 II』(1984)のデモ音源が全部入っていて、締め切りまで1週間くらい頂いて、その1週間で、頼まれたわけでもないのに、全曲に歌詞を書いちゃったんです(笑)。浩二の曲と声が衝撃的で、感じるものがあって、使ってもらえなくても良いと思いながら全て提出しました。そうしたら気に入って頂いて、セカンド・アルバムは、ヒット曲の「ワインレッドの心」と「真夜中すぎの恋」以外の全て採用してもらえました。
安全地帯のファースト・アルバムはウェスト・コーストっぽい感じでしたが、「ワインレッドの心」が大ヒットした後は、そのイメージを広げていきたいというのがあったと思います。セカンド・アルバムは、玉置浩二のキャラクターを生身の男性というより抽象的な、存在するのかしないのかわからないような妖しげな印象にデフォルメしていたんですけど、TVなどへの出演が増えて、玉置浩二の存在感が認知されてきた頃のサード・アルバム『安全地帯 III~抱きしめたい』では、(歌詞の中の)女性との距離感、聴いてくださる方との距離感をリアルな存在に作っていったと思います。
歌詞の人称を「きみ」ではなく「あなた」にして、わかりやすく言うと女性をもてなすような位置関係、恋愛の距離感を意識しながら書いていました。